「爪」という小さなキャンバスで表現をし続ける、爪作家・つめをぬるひと。彼女が生み出す「爪」は、いわゆるネイルとはどこか違う。爪を塗る行為に魅了され、気づけば活動10周年を迎えたいま、改めて「爪を塗ること」について考えてみる。連載最終回の第5回は、生きる原動力にまでなった「爪」の存在について。

 

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この連載ではこれまで、「なぜ爪のことを10年も続けてこられたのか」「なぜ爪だったのか」について書いてきた。自分の性分に合っていたとか、人と出会うきっかけになったとか、いろいろな理由を書いてきたけれど、10年を振り返る時に思い出すのは、「爪」が私を辛い状況から引き離してくれた時期のことだ。

 

 

昔、人間関係で嫌な思いをした。

「明確な悪意をもった、指摘されない程度の言動」というのは、私たちの周りにどれほど多く存在するだろうか。そして、それに当てられるのはいつだって「大丈夫そうな人」で、私もその一人だった。

この「大丈夫そう」とは、何をされても言い返せない、という意味に聞こえるかもしれないけど、それだけではない。どんなに環境が恵まれていても、どんなに周囲が評価していても、自分に無いものを持つ他者に対して「大丈夫そうな人」という烙印をわざわざ押してしまう人がいる。その烙印は無差別的に押されるものであり、もうほとんど事故である。

自分に無いものを持つ他者、と書いてしまうと、妬みや劣等感という言葉に変換されがちだが、それで説明できるならこんな回りくどい書き方をする必要はなく、人の感情はそこまで簡単なつくりをしていない。人と比べることが健全に働くときもあれば、不健全に働くときもある。

いずれにしても感情の問題なので、簡単にどうこうできるものでもなく、解決は遠い。いくら指摘されない程度の言動とはいえ、毎日続くとダメージはそれなりにちゃんと蓄積していく。この時期の私は、自分の気持ちを補修するために爪を塗っていた。辛さが爪を塗る動機だった。爪を塗ると、自分が無敵になったような気がして、特に根拠もないのに「まだ大丈夫」だと思えた。

 

 

そんな状況が何年か続いた頃、塗った爪の写真を投稿したSNSの通知が頻繁にくるようになった。たかが”いいね”と思われるかもしれないし、押した本人は気づいてないと思うけど、辛いときにその通知が来るだけで励みになった。

「いままさに嫌な言動を受けている」というタイミングでスマホに通知がきて、それが前々から出たいと思っていたイベントへのお誘いや、思ってもみなかった媒体からインタビュー依頼なんてこともあった。苦痛で仕方なかった時間のあと、爪の活動で知り合った人が私をご飯へ連れていき、「食べな食べな」と元気づけてくれた。「辛いときに、つめさんの投稿に救われました」というお手紙をいただいたこともあった。それを読んだ私が、どれだけ救われたか。私に悪意を向ける人がいる一方で、私を必要としてくれる人がいる。

 


つけ爪をご使用いただいたときの写真を見せてくださったお客様。嬉しかった。

 

爪を塗り始めた頃はあくまで趣味の範囲と思っていたけど、ここまで来ると、もうそうも言っていられない。爪で関わってくれる人、見てくれている人に、大袈裟ではなく結構具体的に救われてしまった。「感謝しています、ありがとうございます」と言葉で伝えるのは簡単だけど、具体的に救われた分、具体的に返したかった。自分が使える時間や労力を、注ぎたいと思えるところに、目に見える形で少しでも多く注ぎたいし、そのほうがずっと豊かだと思った。そして、それがまさかの「爪」で出来るなんて、可笑しくて最高で、生きた心地がする。その思いは日に日に増して、結果的に私はその辛い状況から離れて今に至るわけだけど、あの時の私は爪を塗ることと、それを見て関わってくれた人によって保たれていた。「爪」が、私を辛い状況から引き離してくれた。

 

 

ここで一つ注意したいのが、こういう時に「辛い経験のおかげで今がある」という言葉をむやみやたらに使うべきではないということ。

プラスに働く場合も多いけど、使い方を間違えるとそれはすり替えでしかない。

辛い経験のほとんどは、無いほうが良いに決まってる。必要悪という言葉は軽率に使っていいものじゃない。私が辛い状況から離れることができたとしても、世の中にはまだまだ受け入れ難いことがたくさんある。一人ではとても動かせられない大きな力を知ることもあれば、自分の行動範囲で起こる卑怯さを目にすることもある。

 

 

「爪」で出来ることなんて、微力どころか皆無に等しいけど、負けないために爪を塗る瞬間はある。連載の初回で書いたことを覚えているだろうか。


“爪は体の部位で唯一、手軽に描写・書き換えの出来る表現媒体。”


掴みどころがなくて、まぬけな爪の日もあるけど、生きているだけで当てられてしまう理不尽さを忘れないために握る手の爪があって、それが自分に強さを与えてくれる色で塗られているだけで、もう少し何か行動を起こせる気がする。もっとやれる気がする。

絶対にいま黙らないほうがいい、と思ったときに言葉を発する瞬発力を持つための爪。

それはもう、生きるために塗る爪である。

 

 

ここ数ヶ月、この連載を書くために、この10年のこと、爪のことをずっと考えてきた。

「爪」が私を今の場所に連れてきてくれて、爪を塗る理由の多さを知る私だからこそできることはあまりに多く、結果的に「生きるために塗る爪」という強気な言葉に到着してしまった。

10年も、と思っていたけど、この言葉に見合うためには、10年なんてまだ通過点なのだと思い知る。