「爪」という小さなキャンバスで表現をし続ける、爪作家・つめをぬるひと。彼女が生み出す「爪」は、いわゆるネイルとはどこか違う。爪を塗る行為に魅了され、気づけば活動10周年となったいま、改めて「爪を塗ること」について考えてみる。第三回は爪が繋いだ、人との「出会い」について。

 

 

爪を塗るようになって、人と関わることが増えた。

爪の活動をしていなかったら出会ってなかったであろう人々が、いま私の周囲にいて、中心でもある。それがまさかの「爪」によってもたらされている、というところにますます私は爪への思いが強くなってしまう。

 femflikkaさんに作っていただいたクッキー。つけ爪のデザインまで再現されている。

「爪」で生まれた関係

10年もやっていると、時期によって関わる人は変わってくる。

お客様でいうと、もう何年も前からずっと買ってくださるリピーターの方もいれば、転職や育児など環境の変化でつけ爪を買う機会が少なくなった後、SNSで毎回反応してくれるようになった方もいる。遠方で会ったことはないけど、DMでメッセージをくださる方もいれば、お互い何故か暗黙の了解のように「いいね」を押し合うだけの関係もある。

「制作・販売を続けてこれた理由」という部分だけで言うと、買ってくださる方がいたから、という理由が一番大きいし、どうしても爪のことだけを仕事にしている以上、売上がないとあっさり終わる仕事であることには間違いないが、お客様にもお客様の人生があって、時間や環境によって興味の動きがある。

「最近興味を持ってくれた人」「昔から今もずっと興味を持ってくれる人」「昔は興味を持ってくれていた人」という感じで、興味の長さや時期もそれぞれ違う。いずれにしても、10年続けているとお客様の人生を遠くから見守っているような気持ちになる。

 

そんな悠長なこと言ってるようでは甘い、と思われるかもしれないが、何が良いとか悪いとかではなく、爪で誰かの人生に関われること、時の経過を一緒に進んでいることに豊かさを感じる。なんだか綺麗らしく書いてしまったが、どれも「爪」を経由していると思うと途端に可笑しい。子供の頃はまさか爪でこんなことになるなんて思ってもいなかった。

 

大和町八幡神社の大盆踊り会で献灯した時のもの。屋号を持つと、ちょうちんにしてもらった時の喜びが強い。

 

活動の一環として、イベント等でお客様の爪を塗る「爪塗り」を定期的に行なっている。

TONOFON FESTIVAL等の音楽イベントや、下北沢ボーナストラックなど、お客様が大勢くるイベントでは「1本から塗れる爪塗り」という形で、少しでも多くのお客様の爪を塗れるようにしている。桜上水にある「はちみせ」というお店や、個人で運営されているイベントでは、少人数での予約制という形で、一人一人に時間をかけて爪10本をじっくり塗る形での爪塗りも開催していて、規模や場所によって形を変えながら、誰かの爪を塗り続けている。

 

この「爪塗り」はお客様と会話ができる機会でもあり、「爪が塗られていく過程を見るのが面白い」と仰ってくださることが多い。イベントの帰りはいつも充足感でいっぱいになり、電車でしばしば放心状態になる。家で作業をしていると、人と話す機会がますます貴重で、一つ一つを思い出しながら余韻に浸る。

 

爪塗りの時に塗ったお客様の爪。 

 

何かを作る人との「出会い」

 爪を通して生まれる交流の中には、イベントに出店している側との出会いも含まれている。

一つのイベントにネイルというジャンルの出店者が2人いることはかなり稀なので、必然的にネイル以外のジャンルで活動している人と知り合うことのほうが多い。

 

絵、服、食、器、装飾、文字、短歌、建築、生活。

 

その人たちのいる世界と「爪」が少しでも交わる瞬間があると、私の頭の中では「爪とこれが交流できるのか」と感じてしまい、より一層「爪すごい」というところまで行ってしまうのである。ちなみに「生活」という言葉をいれたのは、制作をお休みしている人も含めたかったから。今は制作していなくても、生活することで生まれるものはやっぱりある。もっと言うと本当は、お客様と分けて書く必要もない。何かを作る人と買う人。買うことでその人自身も何かを作ることに加担していて、分け隔てる必要は全くない。

 

和歌山に住む友人が高野山に連れてってくれた。
写真家として活動しているこの友人とも、爪の活動をやっていなかったら出会っていなかった。

 

続く人とは続く

普通に過ごしているだけなのに「昔も今も仲の良い人」「最近仲良くなった人」の他に、「昔”は”仲が良かった人」が発生することがある。昔は、人との関わりが遠くなることにいちいち悲観した。

 

高校卒業後に上京した人たちで集まってたグループLINEが数ヶ月後、「もうそろそろ良いんじゃね?」という流れになった時も悲しかった。悲観したくないから、予感の段階で自分から壁を作ることもあった。それをなんとなく「そういうもの」として割り切れるようになったのは、「交流が広がるということには、そういう側面もある」ということが、この10年を通して少しづつ腑に落ちたからだ。

 

爪を通して出会った人との関わりを振り返ってみると、関わる時期や期間に波があったり、遠くなった関係や今も続いている関係があったりする。昔、学生時代に通っていた大好きな喫茶店が閉店した時、店長がブログに「続く人とは続くでしょう」という言葉を残してあっさり終了した。その言葉の潔さが私は好きだった。そして爪の活動をしていると、その言葉にますます現実味が帯びてくる。一旦距離が離れても、また関われる場合もあるし、続く人とは実際に今も続いている。ただ単に嫌なことがあってこちらから離れることもあれば、逆に相手から離れられることもあっただろうけど、特に意図もなくお互いに自然と連絡が途絶えてしまう人もいる。そういう人も、どうか健康でいてほしいと思うようになった。

 

年の功もあるんだろうけど、爪の活動がなかったら、もしかすると今も悲観で忙しかったかもしれない。一つ一つに悲観する暇もなく、新たな関わりと、今も続いている関係に時間を費やすことができているのは結構幸せなことだと思うし、爪のことを10年続けたからこそ得た感覚でもある。改めて、爪ありがとう。私を人に会わせてくれてありがとう。