いまだ多くの人の業を背負い続けている作家、太宰治。「恥の多い生涯を送って来ました」の書き出しで知られる『人間失格』をはじめ、2023年に生誕114年を迎えてもなおその作品は読み続けられており、全く色褪せることなく読者の心をわし掴みにしている。

三鷹の古本カフェ「フォスフォレッセンス」の店主・駄場みゆきは、そのルックスに魅了されて以来の太宰の追っかけだ。そんな駄場が2023年12月から撤去が始まる、三鷹・陸橋への想いを語る。

陸橋から撮影をした、沈む夕焼け

この記事が世に出る頃には、陸橋は封鎖されているかもしれない。その時自分の感情がどんな状態か、今はわからないけれど、陸橋への想いをここに綴ってみるので、しばしお付き合い願いたい。 

陸橋とは、JR三鷹駅から西へ500mほど線路沿いに進むと現れる「三鷹跨線人道橋(跨線橋)」のこと。1929年(昭和4年)に設置されたので完成から94年が経つ。老朽化の為、12月から解体工事が開始される。 

黒マント姿の太宰治が陸橋に佇み、遠くを見つめている有名な写真がある。 手元をよく見ると、煙草を持っている。その白い指がとても美しい。 

この写真が撮影されたのは、昭和23年2月23日。田村茂撮影。季節は冬なので、太宰の眼差しの先には、真っ白い富士山があって、かつて山梨で過ごした日々を思い出していたのかもしれない。  

故郷津軽の方向も見つめたかも。陸橋は、自らの原点と繋がる場所だったのではないだろうか。 

遠くを見つめる物憂げな表情は、太宰治のイメージを決定づける大きな要素となっている。

 

筆者が描いた煙草を持つ太宰のイラスト

「ちょっといい所がある」と案内した場所

玉川上水沿い、仕事部屋、本屋、飲み屋、踏切の前、自宅近く、三鷹の様々な場所で撮影された太宰の写真が残されているが、大半は今では消えてしまった場所だ。  

上水や散歩道はまだあるが、「太宰治がここに立っていた」と位置を特定する事は出来ない。  

となると、太宰治聖地巡礼三鷹編ピンポイント部門第一位は、陸橋ではないだろうか。 全長約90M。この90M分の数センチに太宰治の足跡がある。その見えない足跡、視線の先に思いを馳せ、何度ここに通いつめたでしょうか。 

「ちょっといい所がある」そう言って太宰は来訪者をここへ案内したという。 

『斜陽』がベストセラーになった後は、三鷹の中心地を歩くと、ぞろぞろとファンや野次馬が後をついてきていた。そんな話を、昔の三鷹を知るお客様から耳にした。そんな時、中心地から適度に離れた場所にある陸橋は格好な避難所になったかもしれない。

 

陸橋の南側階段前にある、写真入り案内板

『乞食学生』には井の頭公園の池のほとりの茶店に友人を案内する行がある。舌端がおもむろにほどけるのは「談話の相手と顔を合わせずに、視線を平行に池の面に放射しているところに在る」という。 

向き合うより隣り合って同じ景色を見るというこのシチェーションは、そのまま陸橋にスライド可能だ。 

太宰の視線のその先には、何が映っていたのだろうか。 

陸橋解体のニュース第一報は2年前の春。その後覚悟は出来ていた筈なのに、先日「12月に工事開始のため、橋封鎖、渡り納めイベント開催」という報せを受け、なんだか身体の一部が引き離されるような、切なさが走った。 

この秋も、武蔵野の大きな夕陽を追いかけて、度々陸橋に行った。用事で三鷹駅へ行った時、西の空が赤く染まっているのを見ると、たまらなくなってそのまま陸橋まで走った事もある。どんどん暗くなっていく空に向かって「まだ沈まないで!」と心の中で叫び、「今、私メロスやん」と独り盛り上がり、物語と地続きのごとく、最後の一片の残光を見届けた事もある。 

令和に撤去される陸橋に想いを寄せて

別れの季節は、一番富士山がくっきりと見える例の写真と同じ季節の冬。 

昨年、ある雪が降った日に、「白い雪が敷き詰められた橋を見られるのは最後かも」と思い立って、橋に上った。雪は溶けていて、絵になる銀世界の陸橋が撮影出来ずに気を落とし、橋から外を眺めた。珍しくヘルメットを被った職員さんたちが、線路近くで動き回っていた。普段陸橋から下の景色は、列車の群れとレール一色なのだが、雪で凍った状態の中、通常通り安全運転を進行する為に舞台裏で支える人たちの姿を垣間見てハッとした。 
景色はもちろん、太宰はここから人も見ていたに違いない。絶えず創作の種を探し求めていたそのサガが、安らぎの時間をも磨り減らしたかもしれない。けれども種が芽を出す瞬間が、何よりもの喜びだったろうと想像出来る。 

誰も見ていない美しい行為について書いた作品『一つの約束』には、「月も星も見ていなかった(略)誰も知らない事実を救い上げるのが作者の生甲斐」とある。この想いを引き継いで、約2年間という解体工事、形を変えていく陸橋の最期を、安全を願いながら見届けたいと思う。

 

筆者がかつて太宰治が立った場所で撮影

陸橋のニュースで印象的なコメントがあった。 

コロナで出かけられない近所の親子にとって、陸橋は閉塞感から解放される身近で有難い空間となった。百年近く続く歴史の最期に良い仕事をした(大意)というもの。 

子どもたちが橋から手を振ると、時に車掌さんが警笛を鳴らして応えてくれる。 「やったー!」と喜びの声、周囲も弾ける笑顔。陸橋が歓喜に包まれる瞬間だ。 太宰ファン、鉄道ファンの拠り所であり、何より近くで暮らす人たちの生活を支える橋だった。 

昭和から平成、令和になり三鷹駅前の風景も様変わりしたが、橋からの景色は昭和の面影が色濃く、ノルタルジーに浸れる場がまたひとつ消える。あと僅か、悔いなく「ありがとう」と讃え、撤去後もずっとその存在を伝え続けていきたい。 

三鷹市はこの文化的価値が高い建造物を一部保存・記録を残す取り組みを行うという。もし、写真にも残っている南側の階段が保存されるとしたら、二段目に立つ太宰と同じ景色はまだ在り続ける。 

端っこに老人が腰掛けているのも、ほっこりする良い写真だ。同じ構図で撮影するにも楽しい。 未来への最後の一片の残光が遺される事に救いを感じる。 

12月3日まで太宰治展示室で開催されている企画名は「さよならだけが人生だ」 陸橋とお別れする準備を予告下さったと思うのは深読みしすぎだろうか。 

機会があれば、田村茂氏によって撮影された他の写真の太宰とその背景も見てほしい。市民も映り込んでいて、戦後の三鷹駅周辺の世相が見てとれる。本の頁から見ると、どの写真も太宰治の視線の先は、未来の読者へ向けられているように感じる。 

写真の舞台と同じ景色が全て失われても、太宰文学の耐久性は、永遠なのだ。私はそう信じたい。