カール・ルイスが教えてくれた

1983年の夏休みの事だ。

高校1年生の私は、第1回世界陸上の中継でまだ無名だったカール・ルイスが100m・走り幅跳び・4×100mリレーの三冠を達成し世界的スターになる瞬間を目撃した。そして他のすべての人と同じくカール・ルイスに憧れた。

自分もカール・ルイスみたいになりたいなぁ・・・・・・そしたら「日本のカール・ルイス」って呼ばれるかも・・・・・・なれるかなぁ・・・・・・なれるはずだ・・・・・・いやむしろカール・ルイスの方が「アメリカのタガイ」って呼ばれるんじゃないか。

あの夏から40年。選手として後輩や同級生の応援団として、これまでに1000回は陸上競技場を訪れてきた。

どこの競技場でも毎回一番に行く場所がある。
サブトラだ。

私は陸上競技場にいる大部分の時間を サブトラで過ごす。
そこが、真夏の体育館の大型クーラーの吹き出し口の前や真冬の寒い日にうっかり横になってしまったコタツの中と同じくらい、いやそれ以上に私をダメにする魅惑の舞台だからだ。

サブトラとは、サブトラックの略で正式には補助競技場という。
グーグルマップで陸上競技場を見ると、すぐ横にコピペしたようにソックリな競技場があるが、あれが サブトラだ。

100m走や幅跳びや円盤投げなどの試合が行われるメインの競技場に対し、サブトラは試合前のウォーミングアップや試合後のクールダウンに使われる。本番の試合用ではないので規模や設備はメインの競技場より数段落ちる。

観客席は無いし、トラック1周も400mではなくひと回りふた回り小さいことが多い。中の芝生もメインの競技場ほどは整備されていない。先ほどコピペと書いたが、劣化コピーや縮小コピーと言った方が正しいかもしれない。

それでもなおサブトラは私を惹きつけ、時間を忘れてそこに留まらせる磁力を持っている。

世界は意外と近い、サブトラではね

いつもの週末。
いつものように陸上競技場に行く。入り口付近で大会プログラムを買ってそのままサブトラへ。

巨大な観客席に囲まれたメインの競技場と違い、サブトラは野っぱらにタータンを敷いて白線を引いただけのオープンな空間なので誰でも気軽に出入りできる。

コースを横切ってトラックの中のタータンの上に腰を下ろす。ウォーミングアップ中の選手がそれぞれのスピードで走り過ぎていく。スパイクでタータンを蹴る「グツッ! グツッ! グツッ! 」という音が心地良い。

ここ数年、YouTubeなどの動画サイトで、髭剃りや靴磨きなど「見ているとリラックスできて少し眠くなる」いわゆるASMR動画が人気だが、陸上のスパイクでタータンを蹴る音もそんなASMRのひとつだ。

隣接するメインの競技場の方から、スタート前のファンファーレや場内アナウンス、レース中に流されるBGMが薄っすら聞こえてくる。競技場内だと少しうるさいあの音も、サブトラまで離れるとほどよくマイルドになり逆に心地良い。

中学生や高校生の頃、放課後の部活中に校舎から聞こえてきた吹奏楽部の「プア~」という音が思い出されて懐かしい。

目の前を走る選手の中には、陸上部に入ったばっかりの中学生もいれば日本トップの選手もいる。これは陸上競技ならではの特徴だ。

野球やサッカーで、例えばメジャーリーグの大谷選手と中学生が大会で真剣勝負するなんて事は絶対無いが、陸上競技では普通にある。

インターハイなど高校生しか出られない大会は別にして、ほとんどの陸上大会は誰でも参加できる。ただの高校生が100m日本代表のサニブラウン選手と競争する事もあるし、そこで高校生が9秒台で走ればその瞬間から彼も日本代表候補になるのが陸上競技なのだ。

そんなトップ選手やダイヤの原石を観客席からではなく、サブトラでは文字通り目の前に見られる。場合によっては話しかけてアドバイスやサインを貰う事もできる。

実際、私は高校生の頃にトラックを歩いていて、後ろから走ってきたロサンゼルスオリンピック直後の増田明美さんと衝突した事がある(あれは「コースを開けてください」という声に気付くのが遅れた私が100%悪い)。

三ツ沢公園陸上競技場>>(越えられない壁)>>新国立競技場

サブトラでウォーミングアップ中の選手たちは、このあと競技場を走ってゴールするまで今は誰も勝者でも敗者でもない。結果が出るまでの猶予の時間。

それは例えば、中学生の頃に好きな女子に告白するその前のような。
好きだと告げて受け入れられれば友達から一歩進めるが、断わられたらこれまでの友だちには戻れない。だからあと少しだけもう少しだけ居心地の良い今のままで・・・・・・。

そんな期限付きの穏やかな空気と少しの緊張感に触れていると、ただ座っているだけの私まで、ここでいつまでもぼ~ッとしていたいという気分になる。

これほどASMRで刺激的で不思議に穏やかな心地良さがある場所を私はサブトラ以外に知らない。
サブトラを知っているので十分だ。

そして数あるサブトラの中で私が関東で最強と認めるのが神奈川県の「三ツ沢公園陸上競技場」だ。

いや関東最強なら、日本一の陸上競技場である「新国立競技場」のサブトラだろ! という反論があるかもしれない。これは一言で論破できる。

そもそも新国立競技場にはサブトラが無い。正確には旧国立競技場にもサブトラは無かった。周囲にサブトラを常設できるような土地が無いから、という事だが、そのため2022年の東京オリンピックでは、隣接する神宮球場がサブトラ代わりに使われていた。

選手たちがウォーミングアップし私がそれを眺める居心地の良いあの場所が無い国立競技場。私はこれまで一度も行った事が無いし今後も行くつもりは無い。
 

思い出は今もサブトラにいる

ではサブトラがあるその他の陸上競技場の中からなぜ三ツ沢競技場を選んだのか。
理由はたった一つ、三ツ沢は昭和の頃からほぼ毎年、インターハイ予選神奈川県大会の会場になっているからだ。

高校の部活で陸上部が野球部やサッカー部と一番違うのが引退のタイミング。
どの部活も高校3年生の最後の大会で負けたらそこで引退するのは同じだが、チームとして全員で負ける野球やサッカーに対し、陸上部は同じ学校でも負ける人もいれば勝つ人もいる。

そのため市の大会で引退する人、県大会、関東大会で引退する人、インターハイまで進んで引退する人、と時間差が出る。そしてこの時間差の為に、陸上部の3年生の多くがサブトラで引退を実感する。

毎年、梅雨の時期に開催されるインターハイ予選神奈川県大会。各種目6位以内に入れば次の関東大会へ進める。

6位以下の3年生は引退だ。

競技を終えた選手たちは、仲の良い同級生と一緒にクールダウンをするためサブトラに戻ってくる。そこには次に進める子もいれば今日で引退が決まった子もいる。引退が決まった子はここでハッと気づく。

今日まで毎日、部活の最後にやってきたクールダウン。それはケガを予防し明日も部活ができるようにするためだ。明日から部活が無くケガをしても別にかまわない自分には必要ないんじゃないか。でも今やめるって言ったら、今日で引退じゃないコイツに気を使わせちゃうし。

毎年、梅雨時の三ツ沢のサブトラでは、そんな葛藤をしている3年生が何人もいる。

38年前の私もそうだった。

彼らの姿を見るたびには私は、「試合前の今朝に戻りたい」とずっと考えていたあの日の事を思い出す。

目を下ろせば、昭和の土のグラウンドと同じ赤茶色いタータン。多くの競技場のタータンが、より記録の出やすい青色に変わる中、三ツ沢はメインの競技場もサブトラも古臭い赤茶色のタータンを固守している。

私の高校時代と同じ色だ。

同じように神奈川県大会が開かれていて、規模や設備の面では三ツ沢をはるかにしのぐ「等々力陸上競技場」のサブトラを選ばなかったのは、タータンが最新の青色だったためだ。

耳を澄ませば、放課後の部活中に聞こえた吹奏楽部のファンファーレが・・・・・・。

三ツ沢公園陸上競技場のサブトラは、切なくて穏やかで刺激的なあの頃に私を戻してくれる。

本気でカール・ルイスを目指して夏休み明けに突然、陸上部に入部した私に。初めてスパイクでタータンの上を走って、あまりのスピードに羽が生えたようだと感動した私に。夏合宿の初日に肉離れを起こした私に。毎日、全力で走っていた私に。そして3年夏のサブトラでずっとため息をついていた私に。

次は久しぶりに選手として三ツ沢のサブトラに来ようか。

また目指してみるのも悪くない。

今ならさしずめウサイン・ボルトか。