私が大好きな道路の中でも、特に花形といえる施設が、隧道(ずいどう)だ。隧道とは、人やインフラが地下を通過するための土木構造物。簡単に言ってしまえば、トンネルのことだ。昔からあるものを隧道、戦後以降に造られたものをトンネルと呼ぶ傾向があるが、明確な線引きは存在しない。トンネルと隧道、呼び方の違いだけで、全く同じ意味の言葉だ。
私はトンネルよりも隧道と言われたほうが、なぜか胸がときめく。最新の技術をもって掘られたトンネルよりも、前時代的な雰囲気を感じさせる隧道に浪漫を感じるからかもしれない。

 

トンネルではなく、隧道と呼びたい

日本で最初の道路トンネルとされている青の洞門。

 

青の洞門。拡幅され、車が行き交っている。

 

今や身近な存在となったトンネルだが、日本で最初に掘られたトンネルは、1632年に完成した“辰巳用水トンネル”とされている。道路トンネルでは、1763年の“青の洞門”といわれている。
日本における道路トンネルの歴史は260年ほどということになる。それ以前は、山を越えるには川沿いに迂回したうえで山を登り、峠を通過するしかなかった。道を通すうえで問題になるのは、何といっても山と川だ。山を通過するためにトンネルを掘り、川を越えるために橋が架けられ、道路交通は劇的に進化した。道路のスターともいえるトンネルと橋梁。今回は、トンネルに着目していきたい。

 

青の洞門がある耶馬渓の地形をみれば、道を通すことがいかに困難だったかが分かる。

 

耶馬渓の遠景。下の方に見えるのが青の洞門。

 

隧道を掘る

あえて隧道という言葉を使わせてもらうが、隧道を掘ることで峠を越えずに往来することが可能となる。それは単に時間の短縮になるだけではなく、安全性を大幅に高めた。
例えば、日本最古の道路隧道である青の洞門だが、大分県の景勝地、耶馬渓に位置する。耶馬渓は非常に急峻な地形で、かつては切り立った崖をわずかに削り取っただけという極めて危険な道しか存在せず、度々、人や馬が転落死する難所だった。それを見かねた僧侶の禅海が1730年に隧道の開削を始め、ノミと槌だけを使い、30年以上の歳月をかけて長さ308メートルのトンネルを完成させた。

 

一部区間は保存され、ノミで堀った跡が当時のまま残されている。

 

青の洞門の上にある耶馬溪・競秀峰を歩く。

私が青の洞門を訪ねた際、洞門が完成する以前に人々が行き交っていたであろう耶馬渓の断崖絶壁を通過する道も歩いてみた。全てが当時のルートと重なっている訳ではないが、ハイキングコースも整備されている。転落したら間違いなく即死するような高所に、幅数十センチしかない道がヒョロヒョロと伸びている。岩場を真上に登らせる場所や、激狭い尾根を歩く場面もある。ある程度整備されて今の状態になっているので、かつてはもっと危険な道だったのだろう。
現在は非公開となっている道には、鎖を掴みながら歩かないと命がないという箇所も存在している。こうした道を見ると私はワクワクするが、一般的にはとても危険だし、大変だ。この道しか存在せず、何度も通行せざるを得ない状況を想像すると、私でも嫌になる。

 

かつてはこのような道しか存在しなかったのだろう。

 

少しでも足を踏み外すと崖下に転落してしまう。

 

禅海和尚が30年以上の歳月と莫大な労力をかけて隧道を完成させたことにより、通過時間が短縮しただけではなく、人々が命を落とすことはなくなった。隧道を掘るのはとても大変なことだが、それによってもたらされる効果はとても大きい。現代のトンネルにおいても、それは基本的に変わっていない。

 

現在は公開されていない耶馬渓の道。これはさすがに歩こうという気にもなれない。

 

この崖を上に登るルートがハイキングコースとなっている。かなりハードなハイキングだ。

 

青の洞門はその後、車中心の社会に適応するため拡幅工事が行われ、禅海和尚がノミと槌で掘った痕跡は、一部の保存区間を除いて失われてしまった。

日本初の道路隧道が、もしも当時の姿のままで残っていたとしたら、非常に貴重で興味深いが、現役で使われ続けることはなかっただろう。拡幅工事によって失われてしまったものも大きいが、現在においても260年前と同じ目的で、道として人々に利用され続けているというのは、それはそれで素敵なことだ。

 

非常に細い尾根を歩く馬の背と呼ばれる難所。右も左も崖下だ。

 

こちらはハイキングコースにある鎖場。迫力満点すぎる。

 

脈々と使われ続けている隧道がある一方で、時代により新たに掘り直される隧道も存在する。先に書いた通り、隧道は道を劇的に改善する一方で、莫大な予算と労力を必要とする。そのため、なるべく距離を短く、必要最小限の大きさで掘られることが多い。時代の変化とともに、さらに利便性や安全性を追求し、また、新たに開発された技術を取り入れることで、より長く大きな隧道が掘られていく。

 

栃木県佐野市にある須花トンネルには、案内版も立てられている。

 

例えば、栃木県佐野市にある“須花のトンネル”は、時代に応じて3つの隧道が残っている。須花峠は、当時は足利と現在の佐野を結ぶ唯一の道だった。峠越えを楽にするため、隧道が穿たれてきた歴史がある。

最も古い“旧須花坂隧道”は、明治14年から8年かけて人力だけで掘られた。地元の有志らが寄付金を集め、村民らが自主的に協力して掘っていたが、工事は難航。資金が尽きて村民たちも次々と離れていき、最終的には掘削を始めた田島茂平氏ただ一人となっていた。家族にも見放され、本当に孤独での戦いとなったが、117メートルの隧道を見事完成させた。人がかがんでやっと通れる大きさだったものの、多くの人々に重宝され、地域の発展に貢献した。

 

明治トンネルこと須花坂隧道。現在は立入禁止になっている。

 

その後、交通量が増加すると、交通の要衝であることが行政に認められ、栃木県がレンガ巻きの立派な隧道を大正6年に整備した。さらにモータリゼーションにより本格的な車社会が到来すると、2車線のより大きなトンネルが必要となった。昭和51年に竣工したトンネルは、現在も使われている。

 

坑口は石積み、内部はレンガ巻きで近代的になった大正トンネル。こちらも現在は立入禁止。

 

この3時代に建造された3本の隧道は、“明治トンネル・大正トンネル・昭和トンネル”の愛称がつけられ、ちょっとした観光地になっている。

 

昭和トンネルは現役の県道208号だ。

 

隧道に魅了されて

国土交通省が把握している日本のトンネルの数は、約12,000箇所。使われていないものや個人が掘った小さなものも含めると、もっと多いだろう。そんな、あなたの身近にあるトンネル。いつもは何も考えずに通過してるかもしれないが、少しは気になってきたのではないだろうか。

いつできたのか、どうやって造ったのか、なぜここにあるのか、なかったらどうしていたのかなど、トンネルを観察し、想像を膨らませていると、きっとトンネルが楽しくなる。あなたの楽しみの1つに、トンネル・隧道を加えて頂けると幸いだ。