きっちり統⼀されている案内表⽰たちのサインシステムから逸脱してしまっているサインを「野良サイン」と名付け、観察・記録し続けているちかくさん。しかし、長い間「野良サイン」というテーマを携⾏してきた動機は偏愛によるものではないかも? と語る。ではなぜ、ちかくさんは「野良サイン」を観察・記録し続けているのか......その真相を紐解く。

 

 

7⽉上旬のある⽇、⾃分のホームページの連絡フォームに1通のメッセージが届いた。5PM journalという     Webメディアで「野良サインへの偏愛」をテーマに1本記事を書いてほしい、とのこと。「偏愛」か~。

 

「野良サイン」とは

そもそも「野良サイン」とは何なのか。聞きなじみのない⼈がほとんどだと思います。これはわたしが勝⼿に名づけたものなので、順を追って説明してみます。

「サイン」というのは端的にいえば「案内表⽰」のことです。公共施設、商業施設、観光地、まちなか。そうした不特定多数の⼈が訪れる場所の案内表⽰は「公共サイン」とも呼ばれ、それぞれの場所やその管理者ごとに、サインの⾒た⽬に⼀貫性を持たせている場合が多いです。⾊や⽂字の⼤きさ、どういう⾼さの場所に掲⽰するのか、そこに書かれる⽂⾔、などなど。「サインシステム」と呼ばれるローカルルールやガイドラインを定めていて、それに沿ってサインが制作‧掲出されています。

 

例えば、東京ビッグサイトの館内にはこうしたサインが掲⽰されている。建物名を⽰す「東East」「⻄West」などの⽂字がアイコン的に使われている

 

公共サインにふれる機会が多い場所のひとつが交通機関です。そう⾔われてみれば、JRの駅はだいたいこういう⾊や⽂字だな、地下鉄だとまた違う感じだよな、とおおまかなイメージが浮かぶ⼈も多いと思います。

 

福岡市地下鉄の旧世代のサインシステムの例。⾓丸‧正⽅形が多⽤されててキュート

 

幼少期から、駅のなかにあるサイン類や⽂字を眺めるのがなんだか好きでした。サインシステム、という⾔葉を知ったのはもっとずっと後でしたが、きっちり統⼀されている部分にかっこよさを感じていたと思います。

学⽣の頃、そうした〈オフィシャルな〉案内表⽰を眺めているうちに、ルールに沿っていない案内表⽰の存在に気付きました。⼿書きだったり、オフィシャルのサインに何か貼って上書きしたり。

 

 

えー。せっかくきれいで整ったサインがあるのに! 最初は「なんでこんなことをしちゃうんだ」みたいな⾒⽅でした。同時に、「これって誰も記録をしていないんじゃないか」とも思い、写真に撮って集めはじめました。〈フォーマットから逸脱してしまっている〉案内表⽰たちを「野良サイン」と呼びはじめた時期も、だいたいその頃です。

 

 

これって偏愛……?

執筆依頼のメールに返信し、やりとりを進め、依頼を引き受けることにしたが、どうにも引っかかる部分がある。送ってもらった企画書には「野良サインへの偏愛」「野良サインが好きでたまらない理由」といった⽂⾔があった。掲載先である5PM journalのWeb メディア⾃体も「偏愛」という⾔葉を前⾯に押し出している。

でも、⾃分のこれは偏愛なのか? たしかに、野良サインを撮り集め、SNSに投稿したり⼩冊⼦を作ったりサイトにまとめたり、といった発信を細々と続けているし、「マニア」や「愛好家」の枠の⼈として声がかかることは度々ある。今回もまさにそうだ。呼ばれて⾏った先のイベントやメディアで、横に並んでいる⼈々の活動を⾒て「ちゃんとマニアだなあ!」とか「しっかり愛好している……」と感⼼してしまうことが多い。

 便宜上「野良サインマニア」「野良サイン愛好家」ということにして表に出るが、しっくりこない。なんというか、あんまり⼈の多くない、でも個⼈的にお気に⼊りの公園ではしゃいでいるような感じがするのだ。ただ、うちの公園には「偏愛」もなければ「沼」もない気がする。

 

オフィシャルのサインであればこんなに集中的に掲⽰することはあまりないはずだし、野良サインならではの表現⽅法だと思う。思わず⾒てしまう。掲⽰する⾯によって⽮印の向きがちゃんと調整されている

 

駅の肉声がサインに

ひとくちに「野良サイン」といってもいろいろあります。⼿書き‧⼿作りのものもあれば、パソコンで作ったものもある。「公式」のサインに⾒た⽬を似せて作ったものもあれば、何も踏襲せず⾃由に作ったものもある。本当に限られた時間で作ったんだろうなという簡素な貼り紙もあれば、じっくり時間をかけて、なんだったら楽しんで作っている感じが伝わってくるようなサインもある。

 

オフィシャルの案内表⽰に少し⼿を加えてカスタマイズしているタイプの野良サイン

 

⼗把⼀絡げに「野良サインとは○○だ」と⾔い切ることは難しいと常々思っている。のですが、しかしあえて⾔うなら「駅の⾁声」なのかもしれない。オフィシャルな案内表⽰はきっちりとしたアナウンスのような感じがする⼀⽅、野良サインは⾁声。現場の個々の⼈がつくるものなので、その声のトーンもさまざまです。

 

「ここには無いよ」「ここじゃないよ」ということを伝える野良サインたち。

 

公式の案内も野良サインも、どちらもその場の管理者である鉄道会社側から発せられるもの、という点では⼀緒です。でも、「個々の担当者の内⾯」がこんなに表出する部分って駅のなかにはそんなに存在しないんじゃないかとも思います。丁寧さも雑さも含めて愛おしさを感じられるのです。

 

「変わり続ける」野良サインを、「観察し続ける」楽しさ

7⽉の暑い⽇、執筆の依頼をくれた担当の⽅と打ち合わせをした。その場でも「⾃分のこれは偏愛なのだろうか?という疑問があって……」と伝えた。偏愛かどうかはさておき、読者にちかくさんの視点を共有してみるという⽅向でいきましょう、と落とし所がついた。それならいける気がする。⼀旦納得してその⽇は帰宅した。

 

柱をよけて整列位置をしめす

 

翌⽇、同じメディアに掲載されているほかの偏愛記事を⾒てみようと、「野良イス」収集家のMr.tsubakingさんの記事を読んだ。後半のほうに、「野良イス集めに飽きてきた」という状況に陥り、そこから積極的に「野良イスを探す旅」に出たことで、やっぱり⾃分が集めて発信せねばと思い直した、と書かれている。部分的にわかる、と思った。

 わたしは、野良サインを探しにいくことを⽬的に出かけることは少なくて「出先で遭遇したら撮る」スタイルであることが多い。同時に、⾯倒くさがりでもあるので、撮ったけど整理しきれていない写真もがあまりに多い。例外的に「3年に1回、銀座線の全駅をまわって野良サインを記録しに⾏く」という活動もしていて、その記録をまとめた⼩冊⼦をこれまでに3つ作ってきた。この⻑周期のルーティンが、⾃分を⽀えているような感じがある。

 

⼩冊⼦『銀座線で⾒た野良サイン』シリーズ

 

「銀座線」は浅草駅と渋⾕駅を結ぶ東京の地下鉄で、全部で19駅ある。3年に一度のルーティーンはとにかく毎回、へとへとに疲れて帰ってくる。

⾃分の場合、Mr.tsubakingさんが⾔う「再燃」のような熱さは毎回ない。でも、「おかしな責任感」には⼼当たりがある。駅を回っている時もそうだし、後⽇写真を整理している時も、本にまとめている時も、「なんでこんなことをしているんだろうな」と何度も思う。「やりつづけてきちゃったから……」としか⾔い返せない。

 

銀座線の京橋駅の「出⼝1」と書かれたハンドメイト‧サインの変遷(上段左から2009年‧2012年‧2015年、下段左から2018年‧2021年)

 

野良サインもそうでないサインも、永続的なものではないのでどんどん変わっていく。変わらずに残り続けるものもある。その観察⾃体はたしかに楽しい。

 

銀座線の⽥原町駅の改札⼝の野良サインの変遷(左から2012年‧2015年‧2018年)

 

野良サインというテーマを携⾏し続けた先に

最初の頃に思った「これって誰も記録をしていないんじゃないか」という感じは、今もそんなには変わっていない。

 もしかすると、サインシステムを設計‧運⽤する側の⽴場の⼈たちが、改善業務の⼀環として野良サインも含めた記録をしているかもしれない。ただその場合、⽬的はあくまでサインシステムの不備を調査したり、評価するためのものだろう。⾃分の場合はそうではなく、さまざまな制約があるからこそ⽣まれてしまう表現やその多様さに関⼼がある。

なんらかの問題が⽣じて、その解決策‧緩和策のひとつとしてサインを作る。その作業は、他のさまざまな業務と並⾏して対処しなくてはならないのだと想像する。対応する者それぞれに得意な技能があったり、あんまり得意じゃないからやりたくない⼈もいるかもしれない。そもそも駅の構造が分かりづらい、みたいな⼤きな根本要因があったりもする。それぞれの野良サインの背景には、そうした⼈側と環境側のあらゆる事情がある。そういう視点は最初から持っていたものではないけれど、最近はそんなふうに⾒ている。

 

JR線とりんかい線の改札が横並びに存在していて紛らわしい新⽊場駅。⾃分も間違えたことが何度もある。あちこちの野良サインに苦労がにじみ出ている

 

結局のところ、⾃分のこの野良サイン観察活動が「偏愛」によるものかどうかはよく分からない。
でも少なくとも、⾃分はこの野良サインというテーマをずっと携⾏してきたといえる。持ち続けているうちに視点が少しずつ変化したり、別のことに関⼼が拡がったり、⾃分⾃⾝のほうに変化があった。野良サインを観察しつづけているつもりが⾃分⾃⾝も観察している気がする。⼿放さずに携え続けているというより、5メートルくらい離れたところで常に伴⾛してもらっているような感覚もある。野良サインって、自分にとってのメンターなのかもしれない。