エアコンといえば、大多数は家の中にある「室内機」のことを頭に浮かべるだろう。しかし、私たちが普段街で目にする「室外機」の存在があってこそ、エアコンは機能するのだ。室内機を陽キャラとするなら、室外機は陰の存在。そんな室外機を愛してやまないクリエイターのエンドケイプが、無関心な世の中に対して室外機の魅力と自身の思いを熱く語る。

室外機は舞台袖に隠れた敏腕マネージャー

冬の日は凍えた心が暖かくなり、夏の日はヒエッヒエな快適空間を用意してくれる存在。
それがエアコン、否、「室外機」である。

お気に入りの室外機の情景(雑居ビル)

ご存知のようにエアコンとは屋内の「室内機」と屋外の「室外機」が繋がって出来ている。いわば二人三脚。だが、部屋にいるとどうしても日常的に視界に入るのが室内機の方だ。その室内機の口から温風や冷風がファーファーと吹き出しているものだから、どうにもこうにもエアコン=室内機の印象が強くなりがちだ。実際CMに登場するのも室内機だけ、パンフレットの表紙になるのも室内機、それに家電量販店でエアコンを購入する時だって室内機のデザインだけを見て決める人がほとんどだ。

だから室内機のデザインは毎年ちょっとずつ先進的にアレンジされていく。その気持ちも理解できるが、「ちょっと待ってくれ!」と言いたい、目に映る物が全てじゃない。室内機がスポットライトを浴び持て囃されるタレントなら、室外機はそのマネージャーだ。人気タレントの裏には必ず敏腕マネージャーの努力・暗躍があることを忘れてはならない。

限られたスペースにこれでもかと何台もの室外機が設置されている光景

僕はエアコンマニアではない

はじめにこれだけは強く言いたいのだが、僕はエアコンマニアではない。室外機が好きなだけだ。

そもそも室外機に興味を持ったのは小学生の頃だ。町を探検していて目につく機械らしい機械は室外機くらいだった。しかも中でプロペラが回転し、低い唸りと共に稼働しているものだから、メカ好きな少年としてはたまらない謎のメカに思えた。もちろんその時は室外機が一体何のために動いている機械なのかも知らなかった。ただ、なんだか秘密基地に通じる入口のようなイメージを持っていた。
やがてその本当の役割を知ることで完全に秘密基地の入口に肩入れするようになったのだ。チップとデールのチップ派、デール推しが存在するように、僕はその片方を推そうと心に決めた。

じゃあ室外機ってナニ?

とにかく室内機が単独で熱や冷を作り出しているという世間一般のイメージが強すぎる。部屋のエアコンが卓上のハロゲンヒーターや冷風機みたいに単体で稼働・完結していて、室外機はあくまでもその外部電源的な役割だと思われがちなのだ。
これは先に述べたように広告なんかの影響も強いと思う。そりゃどこにも室外機が露出していなかったらそう誤解されてもおかしくはない。室内機を持ち上げすぎたせいで全く室外機の役割が世間に浸透していないのだ。

だから多くの人が「室外機は一体なぜ存在するのか?」という哲学じみた疑問を抱いてしまうし、それは当然の流れだと感じる。
そんな室外機の中には圧縮機や熱交換器や最先端技術がギュッと詰まっており、パイプ内の冷媒という物質が室内から奪った熱を外へ吐き出したり、逆に室内へ運んだりして部屋の温度を変えている。夏に室外機が吐き出す温風は室内で奪った熱である。猛暑の中で室外機は黙々と頑張っているのだ。

室外機にもさまざまな顔がある

無関心すぎる世の中

エアコンを買う時に室外機の形や顔を気にして買った人、手を挙げてください。いないでしょ?
なんなら自分の家の室外機の形だってすぐ思い出せないはずだ。

レフリーのいないボクシングがただの喧嘩になるように、室外機のいない室内機はただの風しか出せない。試合にならない。そんな重要なポジションであるにもかかわらず人々は“この子”に無関心すぎるのだ。興味を持たないどころか「大きい」「重い」「置き場がない」「うるさい」「夏に温風を吹き出し不快だ」「建物の外観を乱す」と憎悪のオンパレード。ひどいもんである。それは労働で流した汗をなじる行為と同じだ。そんな室外機の悪口を暖房や冷房の効いた部屋なんかで言っているのだから始末が悪い。

個性的なカバーで囲われた室外機

快適な空間を作り出している主役こそ室外機で、エアコンの心臓でもあり、真の立役者でもある。
それなのに住宅の室外機はツタが絡まり経年劣化もほったらかし、繁華街の室外機は蹴られて破損し、スプレーで落書きされ、天板はゴミ置き場と化し、明け方泥酔したホストが被さっていたりする。おまけに室外機は銅やアルミたっぷりなので盗難被害にもあう。泥棒からしたら金庫が外に置かれているようなものなのだ。まさに踏んだり蹴ったり。

だからこそ、どうか自宅の室外機にそっと手を置き「いつもありがとう」と言ってほしい。それだけで室外機はとても喜んでくれる。植物の生長とクラシック音楽に密接な関係があるように、室外機にも人間の声が届いていると僕は信じている。

繁華街の室外機はシールも貼られがち

室外機のある世界

そんな室外機が街に溶け込む景色はとても社会的かつ情緒的だ。
電柱の裏ではにかむ様に佇む姿、式典の如く整然と壁面に並ぶ姿、天板に猫が寝そべっていたり、植木が置かれたり、メニュー看板が張り付けられて飲食店の手伝いをしてくれたりする。キッチンカーにも漁船にも駅のキヨスクみたいな狭い場所にもついている。もちろん各メーカーで顔も違うし中身も性格も違う。

団地や病院などでは圧巻の室外機群が見られる

キッチンカーについている室外機。色もオレンジに塗装されている

今年デビューした子の隣に何十年も前の老兵が現役で稼働していたりするのもほっこりする。この現実の社会と同じようにみんな一所懸命働いている。ただひとつだけ我々と違うのは不平不満を一切言わないという事だ。僕はそんな室外機が大好きだ。

21世紀になっても小型化しないまま(内容的に難しい)、日本の狭い路上やベランダに腰を据える室外機たち。もしそんな室外機が学校にいたら『不器用な子』として扱われるかもしれない。
地頭はいいのにその実績が表に出にくいタイプで、休み時間も他者と絡む事なく教室の隅でぽつんといたりする。または良かれと思ってした行動がすべて裏目に出ちゃうタイプ。そしてクラスの人気者の引き立て役。室外機はまさにそんなポジションだ。

室外機の大先輩は奥行きもあるのだ

室外機を機械として捉えてはいけない。室外機は感情を持つバディとして同じ目線であり続けたいなと常日頃から思っている。寡黙にひっそりと働く室外機と同じ目線に立てば人は物事を俯瞰で観察出来るようになる。それは即ち他者に優しくなれるということだ。

「王蟲(オーム)は害ある蟲ではなく愛すべき存在だ」と訴えたナウシカのように、僕はいつまでも室外機の側に寄り添い続けたいと思う。
「その者青き衣をまといて室外機の野に降り立つべし」である。

旅行先のマレーシアで室外機を発見した時の一枚