鬱々としていた日々の中、人生を思わず投げ出しそうになってしまったその時に、アイドルプロジェクト「ハロープロジェクト」に偶然出会い、救われ、虜になった、ある男が綴るハロプロ偏愛ストーリー。

 

少しずつ、ハロプロとの距離が生まれていく

2006年、バンド活動が急激に忙しくなる中、仕事上のトラブルを抱えてしまった私は、生活のリセットを余儀なくされた。そういった生活の変化により、心は徐々にハロー!プロジェクトから離れて行くこととなった。

奇しくもそういった生活の変化は、ハロプロの応援のため、いつも一緒に走り続けていた仲間たちにも同様に起こっていた。遅すぎる就職や結婚、生活場所の移転などにより、私と同じくハロプロのために費やす時間が少なくなり、次第に離れ離れになっていった。

この頃は、一般的にもハロプロのファンが減少傾向にあった時期であった。AKB48やPerfumeをはじめ、世の中には競合となる女性グループが生まれ出していたというのもある。実際、そちらに流れた仲間も多く存在していた。

私はといえば2008年に上京し、何者かになりたいという夢を叶えるため、音楽の仕事を続けていた。チャンスを求める中、2009年に神聖かまってちゃんというバンドと出会い、マネージャーとしての活動を開始する。これが運命を変え、私の名前が世の中に出るきっかけとなった。

仕事も軌道に乗ったその当時、世はメジャーからマイナーまで多くのアイドルたちが群雄割拠する「アイドル戦国時代」となっていた。ハロプロファンであった過去に謎のプライドを持ち、その辺の新興ドルヲタよりもアイドルに対し一家言ある自負のあった私は、自分でもアイドルをプロデュースしてみたいという気持ちを心のどこかに抱えていた時期はあったが、結局実行には移さなかった。もちろん、音楽業界的に「中の人」となったことで、他のアイドルに傾倒することもなかった。

そんな2010年、私は神聖かまってちゃんのアルバム発売情報をネット民からすっぱ抜かれるという大きなミスを犯す。しょんぼりしながら神聖かまってちゃんのファンに謝罪のニコニコ生放送をするため、柏のカラオケボックスに訪れた私は、たまたま流れていたKARAのデビュー曲に衝撃を受けてしまう。アイドル戦国時代を尻目に、海を超えてK-POPのファンになってしまったのである。

 

松浦亜弥さんの復帰を呼びかける

かつてのハロプロ以来の熱量で、私はKARAにのめり込んで行った。音楽業界に身を置いてはいたが、K-POPは遠い存在だったので自分にはちょうどよかったのであった。しかし、人気絶頂の時、KARAには分裂騒動という危機が起こる。それを乗り切ったとき、ファンとしての私はあっさり燃え尽きてしまった。

時は2012年。ハロプロにハマった時も、KARAにハマった時も、全てはふとしたタイミングだったが、その時もきっかけはなんとなくだった。YouTubeでふと過去の松浦亜弥さんのライブ映像を観たことで、燃え尽きていた心に突然火がついた。松浦亜弥さんは当時、表立って活動をしていなかった。こんなとてつもない才能のある人が、ほとんど活動していないとはどういうことだ!?仮に松浦さんが活動できない理由が何かあるのなら、自分が動くことでなんとかできないものか。K-POPは正直、私がいなくても安泰だろう。しかし、松浦亜弥さんには私が必要なのではないかーーー。

唐突に謎の自意識が発動した私は、当時長らく活動休止中だった松浦亜弥さんの復帰を呼びかける活動を始めた。ただのしがない松浦亜弥ヲタだった数年前とは違い、今の自分は音楽業界に身を置いている。雑誌やWEBの連載があり、SNSもある。きっと何か力になれる。あの頃、杉作J太郎さんから学んだ「彼女の前に水たまりがあったら、自分はそこに敷かれる上着になる」の精神で、日々頼まれてもいないのに松浦さんの素晴らしさを説く活動を繰り広げ、最終的には復活のプランを企画書にして、所属自事務所へ持っていってみたりもした。しかし、色々やってみたが、実現は難しかった。

そんなことをしているとどうしても目に入ってくるのが、現在進行形のハロプロだ。ちょうど道重さゆみさんがリーダーとなった新生モーニング娘。に、ガツンとやられてしまった。結局、私はスライド的にモーニング娘。の熱狂的なヲタに復帰してしまったのであった。

それはハロヲタとして2度目の青春だった。あっという間に新しい多くの仲間たちができた。

道重さゆみさんは、「またモーニング娘。がトップアイドルにならなければいけない」と言った。それを聞いた私は、今度は彼女の夢を叶えるため、敷かれる上着になろうと思った。

 

道重さゆみさんのオタクとして仕上がりきった当時の筆者

 

私が最初にハロプロに傾倒した20代の頃は、オタクは男性ばかりで、日陰者の得体の知れない存在だった。しかし、アイドル戦国時代以降、アイドルの応援はよりカジュアルになり、若い女性も気軽に足を運べるものとなった。今では「推し活」なんて言葉も使われ、人生を豊かにするものとして明るく推奨されている。ハロプロは30年近く続く団体となり、「推し活」市場の中で老舗として、伝統や歴史に裏付けられた独自の存在感を放っている。絶対的総合プロデューサーだったつんく♂さんが離れてもそれは変わらず、むしろ際立っているようにも感じる。人気は安定、ファンクラブの女性比率は半数を超え、多くのハロプロファンの芸能人たちが、その特殊な魅力をメディアで語る機会も増えた。

 

映画『あの頃。』が公開されて

私はというと、師・杉作J太郎の教えを守るべく、絶望の中にあった若き自分を救ってくれたハロプロへの恩返しを心がけてきた。ハロプロを語る機会があればどこにでも馳せ参じる。事務所からの要請があれば何でもしてきた。ま、それも含めただ楽しくファンをやっていただけの気もするが…。

しかし、その結実として、2021年に映画『あの頃。』があった。松浦亜弥さんに出会った私と、ハロヲタ仲間たちとの日々を描いた私のエッセイが、松坂桃李さん主演、今泉力哉さん監督で映画となったのである。この時、自分がハロプロファンとしてできることは最大限まで来たことを感じた。

 

映画「あの頃。」公開時

映画あの頃。公開時の特別展示

 

しかし、決してKARAの時のように燃え尽きたわけではない。現在の私は、リーダーまで勤めたハロプロを卒業後、女性問題などを積極的に発信している和田彩花さんと共に音楽活動をしている。他にも、機会があればOGたちの音楽活動の協力をしている。現役メンバーはたくさんの強固なファンがいるので、自分は少しでもOGたちの力になれればと思っている。

 

現在は和田彩花さんと仲間たちと共に音楽を作っている。

 

ハロプロに限らず女性アイドルは、どうしても若いことが価値とされてしまう風潮の中、グループを卒業後に困難が待ち受けていることが多い。芸能活動を続けるにしても、辞めるにしてもである。しかし、彼女たちの人生は、アイドルを辞めてからの方が長いのだ。それならば、持続的な活動をできる人が1人でも増えたらいいというのが私の願いである。

いつの間にか私の年齢は、出会った頃の杉作さんを越えてしまった。

敷かれる上着となる旅はまだまだ続く。