私が海辺で石拾いをしていると言うと、皆戸惑うばかり。この人…何言ってるの?といった感じで。話が進み大体理解したあとは質問の嵐。なぜ石拾いをするのか、その石を一体どうするんだと、もう止まらない。
そんな問いに対して、自分なりの答えを出しておこうと思う。この記事を読んだうちの一人でも、石拾いって、なんかいい。と思ってもらえたら本望。なぜなら私は石拾いを本当に素晴らしい、究極の活動だと思っているからだ。
美しい石
なぜ石を拾うのか
素朴な疑問。正直なところ、自分でもよくわからない。子供の頃に川や海で石を拾った覚えはないだろうか。「なんか拾いたい」「なんか集めたい」その延長にあると思っていいのかもしれない。山に登りたい、絵を描きたい、となんら変わりない初期衝動。ただ大人になったあとにその衝動が起きる確率が圧倒的に少ないため、なぜ石を拾うのか不思議に思えるのだろう。
石拾いの何がいいのか
石拾いの何がいいのか、と聞かれると、「それってただの石ころでしょう。」に聞こえてしまう。そうだ、ただの石だ。私が拾っているのは無価値なただの石だ。希少価値のある宝石でもなければ何かに使える石材でもない。
これの一体何がいいのか、またなかなか難しい問いである。体を動かしたい、またはストレス発散、癒し、自然と触れ合いたい、など当たり障りのないことは言える。だが、石を拾うという行為にはそれ以外のもっと重要な「何か」がある。
私は基本海で石を拾うのだが、波の音を聞きながら、無心で石を眺め、なぜか気になる石を手に取るこの一連の動作には何か瞑想に近い心地よさがある。(普段瞑想をやっているわけではないが)
それから石を拾い並べる時、そこにはその人の趣味趣向、美意識、想像力が垣間見えて、何か創作をせずともその人の個性が石に現れることがとても面白いと思えるのだ。
石拾いのきっかけ
子供の頃から石を拾うのが好きで、家族で海水浴や川遊びに行くと石を拾っていた。雨の日には公園や小学校のグラウンドに落ちている石ころも水に濡れてなんだか綺麗に見えた。家に持ち帰ると乾いて普通の石になってしまいがっかりしたことが何度もある。だが私は成長とともに石の心を忘れていき、ゲームや音楽、漫画やアニメ、映画などの娯楽にとって代わっていった。
それから成人してさらに十数年、ある日突然、私が勤める会社の同僚がなぜか石をオフィスに持ち込んだのだ。なんだその怪しい会社はと思うかもしれないが、広告業のグラフィックデザイナーなので私も彼も他の社員も少々おかしい。誰も驚くことなくむしろ石の美しさと不思議さに魅了された。その中でもとくに衝撃を受けてしまったのが私だ。気が付けばその週の土曜日、初めての石旅行に出掛けていた。
初めて拾った石
石について詳しいのか
頻繁に石拾いに行くので、石を拾える海岸については多少詳しいが、石(鉱物)についての知識はほぼない。全くわからない。
そして私は石拾いにおいて地質や成分などを重要視していない。ただしこれは私個人の話であって、石の人々の中には石の成り立ちに興味がある方もいる。私も興味がないわけではないので少し勉強しようかなと思ったりしているが思っているだけだ。
他の石の趣味との違い
世の中にはいくつも石の趣味がある。水石、鉱物収集、スピリチュアル。ただの石ころ拾いはどれとも違うが共通点もある。
まずは耳馴染みのない水石と呼ばれるもの。室内で石を鑑賞する日本の文化、趣味だ。主に川で拾った自然石を、その形にあわせて作った台座に乗せる。水盤に砂を敷き石を配置することもある。ひょっとしたら、旅館の入口や、床の間、親戚やご近所のおじいさん、おばあさんの家の庭先で見かけたことがあるかもしれない。しかし多くの方がスルーしてきただろう。私の場合は昔、近所に水石を庭に並べて毎日水やりをして暮らすおじいさんの存在を知っていて、石に興味があった子供の頃はよく眺めていた。記憶が曖昧だが、庭の中に入れてもらったことが一度だけあったような気もする。その石の形はさまざまで、基本は遠山や滝などの山水風景を表し、ほかには家や仏像、抽象までさまざまな見立てがある。
この名前すら世に知れ渡っていない水石、実は昭和40年頃に一度石ブームが湧き起こったそう。信じられるだろうか。石のブーム。
日本水石協会の歴代会長は明治神宮の宮司が着任し、第一回の展覧会は三越で開催されており、さらには水石の歴史は室町中期の流行にともなって始まったと伝えられ、名石としては後醍醐天皇愛石銘「夢の浮橋」が有名らしい。とんでもない世界に足を踏み入れている気がする…と思ったが、昔から人は石を色々なものに見立て、情景を思い浮かべ、純粋に楽しんでいたのだ。ちなみに私は水石の世界には手を出していない。
次に鉱物収集。これはなんとなく想像がつくだろう。アメジストや翡翠など希少性のある鉱物を集める趣味。基本はミネラルショーなどで売買するものだと認識している。ただの石拾いに近い趣味だ。すべての趣味を料理で例えるなら豚汁と味噌汁くらい近い。だが鉱物収集は、稀少性の高さと売買される点が大きく異なる。
最後にスピリチュアル系のものについては正直あまりわからない。さまざまな鉱物がカットされたり研磨されることも多く、それを身につけたり飾ったりするのだと思うが、ただの石拾いは石を加工しない。川の流れや海の波など自然の研磨にゆだね、ありのままを楽しむ。
ただの石ころは、様々な物質が混ざりあってできた、カオスな存在であり、希少性、輝き、透明度においてもさほど重要視はしない。(一部する)
自然の作り出す不思議な造形と、色や模様を楽しむ。水石のように見立てたり、鉱物のように美しいものを求めたりもする。拾っている時の軽い瞑想状態はひょっとするとスピリチュアルにも通ずる、最もプリミティブな活動、それが石拾いなのかもしれない。ただ石を拾っているだけなのだから当たり前なのだが。
水石のイメージ
なぜ海の石なのか
私は基本海で石を拾う。海のほうが色形、触り心地のいい石が多いからだ。川、特に上流では、石が自然に削られる前のごつごつした状態で、中流から下流にかけてもまだザラつきがある。川の水流で石が程よく削られて、やがて海へ流れつき、さらに荒波によって石が洗われ、擦れ、自然に研磨されることによって、石がさらさら、すべすべ、つるつるになっていく。必ず、すべすべつるつるでないといけないわけではないが、基本はきめ細かい表面で、触り心地がいいものが好ましい。あえてごつごつ角張った石を選ぶ場合もあるが、それはかなり稀で、気の迷いか、あるいはとてもいい見立てができたか、その海岸を代表する特徴的な石なので記念に持ち帰るかのいずれかだ。
ここで偶然出た「記念に持ち帰る」という考えだが、とても強くおすすめする。この記事を読み、いやいや拾いませんよ。と思ったあなた。海に行くことがあれば、または旅行の際、海が近くにあれば行って、騙されたと思って一つお気に入りの石を見つけてほしい。家に持ち帰るか、写真に収め、数日後、ふとその石を目にした時に思い出すだろう。あの美しい海を、自然を、町を、旅のすべてを。
そう、海の石ころは、唯一無二の旅のお土産であり、超強力な思い出復元装置なのだ。そして硬度の高い石ころは、あなたが寿命を迎えた後も、ほぼ形をそのままに、残り続けるだろう。
石の海
これであなたも「石」を認識した
子供の頃に一度は拾ったことのある石。大人になると、ほとんどの人が石を拾わない。子供の頃は何もかもが新鮮で、動物、植物、石にも興味があったはずだ。だが成長とともに「価値」という概念が刷り込まれていく。必要・不要に分けられていく。石材としては目にするものの、その辺に転がる石ころ自体は無価値で、あってもなくてもいい存在になる。そして興味がないどころか一個の物質として認識されず、砂やコンクリートなどと同じく地面の一部となる。
だが石は確実にここに在る。何億年も前から。石は美しい。美しすぎる。そしてそれに気づいてしまうともう後戻りはできない。不思議でどこまでも奥深く、それでいて水や空気のように当たり前にある、石の虜になってしまうのだ。
石は美しい