俳優・東出昌大氏は、今、北関東の山奥で狩猟をおこないながら、いわば “半自給自足生活”を送っているのだという。そんな彼に、少々唐突ながらも、聞いてみた。「愛って、何なんでしょうね」と。本稿は、3時間ほどにも及ぶその取材記録であり、同時にこれは、彼が想う「愛」についての、独白的モノローグである。彼の暮らしについて、また、彼が抱く “狩猟生活への愛情” について、彼が抱く等身大な “偏愛” の姿を覗いてみよう。

連載最終稿となる今回光を当てるのは、“狩猟×山暮らし”。山暮らしを続けていくに当たって、他の大切な命をいただきながら生きているという彼から、その信念や心の内を問う。

 

前回までの記事はこちら

命を食べて、山で生きる。俳優・東出昌大が抱く、山暮らしへの愛 vo.1

命を食べて、山で生きる。俳優・東出昌大が抱く、山暮らしへの愛 vol.2

 

“木の幹” としての山暮らし。そして、そこから伸びる枝葉たちについて

2021年11月に、山奥での狩猟生活をスタートした東出氏。他の命を狩り、食べ、山で生きることを続ける彼は、どんな哲学と信条をもとに、その “生活” を成り立たせているのか。都会・東京と山を行き来しながら暮らす彼の目の奥には、心の奥底には、どんな想いがあるのか。彼のアティチュードと姿勢について、訊いてみた。

 

東出昌大(以下、敬称略):僕は、山での暮らしを、自身にとっての “木の幹” だと思っているんですよ。

と言うのも、東京からこっちに出てきた頃、山暮らしにおける最初期には「きっと山の暮らしが芝居に活きることもあるだろう」なんて思っていたんですよね。いわば、東京での暮らしを “幹” だと思っていた、というか。ただ、ふとした時に思ったんです。「芝居というアウトプットの作業は、それとしてもちろん大切だけれど、アウトプットだけが自分の人生じゃないな」って。

そうして生きてしまうと、生きることそのものに絶望してしまいやすいな、と。僕は役者である前に、“東出昌大” という一人の人間です。当たり前のように聞こえてしまうかもしれないけれど、これは本当に大切なことだと思う。僕がやりたい山での暮らし、つまり “木の幹” から、役者や芝居といった “枝” が伸びている。そういうものだと考えるようになったんですよね。

 

実際、この生活の中で、木に触れていることも、強く作用しているのかもしれません。僕にとっての “幹” は、こっちでの生活。それは間違いないですね。

もちろん、反発的なアティチュードとしてパンク的な考えをあえて持つようにしているだとか、そういうことは一切なく、恨みも反骨心もありません。純粋に山での暮らしが楽しいんですよ。

そして何より、“木の幹” としての山暮らしを楽しめてさえいれば、こっちでの暮らしにおいて充実した心で過ごせてさえいれば、その “枝振り” もそれに応じて良くなっていくはず。つまるところ、芝居も良くなっていくはず。そう思うんです。

 

 

相対的な評価の中に自分の価値を定めず、自分で、決める。

東出:山での暮らしが楽しいことの理由として、もちろん自分の自由と意思をもとに生きられることの幸福感も大いにあるのですが、やはり「住民の方々と仲良くなれた」という点も大きいのかもなぁ、と感じるんです。そこは切っても切り離せませんね。

 

もっとも顕著なのが、お風呂です。僕が暮らすこの地域には、銭湯が一軒しかなくて。付近の住民みんなが利用しているんですよね。山で暮らす日々においては、僕も必ず毎日利用しているのですが、大体毎日決まった時間に行くと、常連のおっちゃんたちは毎度みんな揃って押し黙っていたんです。「なんか若いのが来たな……」とヒソヒソ声が聞こえるぐらい(笑)。

そうして僕が足繁く通っているうちに、おっちゃんたちも認識してくれたんですよね。「こいついつもいるな……」と思ったのか、突然話しかけてくれたんです。「俳優なのか、そうかそうか」とか、何気なく「今日あったかいな、熊が獲れるかもな」とか。「お前、山に住んでるのか。これ食って栄養つけろ」なんて言いながら、帰りがけに肉をくれた方もいました。

それぞれみんな、どこに住んでいるおっちゃんなのかも知らないし、何でもかんでも知ろうとも思わない。ただ、そこにすごく心地よい “距離感” がある。ベタベタせず、ただ、決して突き放さず。もちろんいきなり仲良くなるなんて、夢のまた夢ですけどね。時間がかかるものです。ただ、僕が役者であるかそうでないか、そんなことを一切気にすることなく一人の “人間” として扱ってくれるような、そういう心の通いがあるような気がします。

 

ちょっと話がズレますが、僕には嫉妬心が無いんです。若い頃、たとえば、10代の頃のアルバイトの時期を思い出しますよ。その頃は、アルバイトの給料が月に10万円あったとしたら、かなり大金持ちになった気がしていたんです。でも、その頃に、もし周りの友達が月に50万円稼いでると言ってきたら、相当貧しい気持ちになってたはず。それはそうですよね。「自分は不足している」と思ってしまうだろうから。

今は、それが無いんです。「あの人は鹿を3頭撃ったのに、僕は1頭しか獲れていない……」なんて、悩まない。悩むとしたら「生きていくための食料、足りるかな………」ぐらいのもんじゃないですかね(笑)。

お金や名声、その社会的ステータスというものをモチベーションにして送っていく生活も、ひとつの正しさかもしれない。ただ、僕はこの山暮らしにおいて「なるべくお金をかけないように……」と考えながら暮らしているし、それが自己充足のためになるんです。相対的な評価の中に自分の価値を見出さない。自分は、自分の暮らしを続けていくだけ。だからこそ、こっちでは “嫉妬心” からも自然な形で脱することができているんだと思うんですよ。

 

自分は、どうするか。そこなんです。たとえば、山の中でお腹を空かせた子連れの熊と出会った時。彼らは、僕を襲うはずですよね。僕を捕食したくて。その時、法律上で決まっている “狩猟区域” ではない場所にいたとしたら、どうするか。法律はもちろん守らなくてはならない。でも、自分の命も、守らなければならない。そもそもそういうシーンに自分の身を置かないよう、最大限努めることが前提として大切ですよ。ただ、もしもの時は、きっと訪れるかもしれないじゃないですか。

そういうところにも、“自分が” と考える大切さがあると思います。「自分なら……」と。他人がどうこうではなく、自分が、自分で、自分の生きる道を決める。熊や鹿、その他動物たちの命をいただく時もそう。自分が、撃つ。

初めて鹿を撃った時、とても不思議な気持ちになったのを、今でも鮮明に覚えています。たくさんの血を流しながらバタバタと脚を動かして、必死に生き永らえようとする彼を見て、体の奥底から「自分は殺してしまったんだ」という言葉が湧いてきた。それが頭を占めて、しばらくボーッとしてしまった。その情景を、今でもハッキリと思い出すことができます。それも、“僕が” 撃った。僕が、僕のために、撃った。

そういうことを考えるのが、きっと、好きなんだと思います。僕自身。生きることそのもの、そして、生きていくための諸々について、自分なりの意思をもって…考えること。それを、この山暮らしで実践し続けているのだと考えています。
本当に、とても楽しい日々なんです。誰から何を言われようと。

 

 

Text by Nozomu Miura
Photo by Kyohei Yamamoto

 

 

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