お笑いコンビ「馬鹿よ貴方は」のボケを担当している、平井“ファラオ”光に<偏愛>している物について語ってもらう連載企画。最終回では、お笑いのルーツ・落語について語っていただいた。

 

男子のロマン「お爺の達人」

5pm Journalさんでの5回連続コラム、今回で最終回である。そして最後はやはり自分の中で最も重要な軸となっているお笑いについて、そしてお笑いの中でも最も重要なルーツといえる落語について書かせていただくことになった。

君「待ってました!」。

芸人である以上、普段から落語は当然見ているものと思うかもしれないが、実際は現代の漫才師やコント師の多くは積極的に落語を鑑賞していない。僕自身昔から落語を好きだったわけではなく、芸人になってある程度経ってから勉強のために見始めた感じである。

実際現代人の感覚で見ると、最初はどう楽しめばいいのか戸惑う人が多いのは仕方がない。おじーさんがおじーさんたちの前でこじんまりと昔の噺を昔の言葉で昔の感性で話している。落語に対するパブリックイメージはそんなところだろう。確かに僕も最初は楽しみ方がわからなかった。が、これが色々と見ているうちに自然と色々な楽しみ方が見えてくるのである。

やはり面白いのは、落語は現代のお笑いのイメージと違い、必ずしも『笑い』だけが重要視される文化ではないというところだ。大きくジャンルを分けてみても、笑いを取りに行く滑稽噺以外にも、泣きや和みの要素を取り入れた人情噺や、ゾワリを前面に押し出した怪談噺など、笑いとは対極にあるようなジャンルも普通に存在している(落語初心者が笑う心構えで寄席を見に行ったのに、人情噺をやられて意味不明なまま終わったという話はよく聞く)。

また、噺の中身に関しても、ストーリーとしての面白さに留まらず、インタレスティング的な面白さもあり、演者の表現においても声質や細かな技術、古典への解釈、優れた表現力が映し出す古き時代の風情、ある種の音楽としても聴ける語り口の心地良さなど、実に幅広い楽しみ方が落語にはある。

とても個人的に感じている落語の魅力でいうと、単純に「お爺の達人かっこいい」というのもある。
バトル漫画などでもよく出てくる超強い老人。これは男子にとってのロマンである。そんな達人お爺が落語界には実際に存在しているのだ。勿論演者のことであって噺の登場人物のことではない(噺に出てくるお爺は大抵変人だ)。
そんな単純なかっこよさに憧れるというのも普通にあるし、そんなところを落語の入口にするのも全然良いと思う。

勿論上記のような楽しみ方は参考までにという話で、本当に必要なのはそれぞれがそれぞれの感性で独自の楽しみ方を見つけることである。これはあらゆる文化の鑑賞者に言えることだが。

 

落語の学習がもたらしたもの“落語とはブルース”

このように落語というのは様々な楽しみ方ができるのだが、対して現代のお笑いはというと、ほぼ笑い一点のみにとらわれ、内側にばかり目を向けた結果同じような表現ばかりになってしまっているのが現状だ。絶対にもっと落語を見習わなければならない。

それだけでなく、落語には笑いの基礎という基礎が詰まっているため、基本的に芸人は地力をつけたいのなら落語の学習は必須である。これはいわば足腰を鍛える作業になるので、腕の力だけ鍛えてパンチを打つような小手先のワードセンスなどに頼らずとも、地に足のついた芝居力や展開で笑わせる力がつき、さらに当然ながらトーク力も磨かれるので、楽しめるようになるまで時間がかかろうが絶対に落語は見るべきなのである。むしろ楽しめるようになるまでの努力により己の感性も鍛えられるので、尚更見るべきだ。

事実普段から落語をよく見る者とそうでない者では、長い目で見たときに明確に成長率に差が出る。

元々誰よりも言葉を発するのが苦手で、実際誰よりも言葉を発してこなかった、いわば完全なマイナスからのスタートだった僕が今や一人でMCまでやれるようになったのも、コンビではネタを書く方ではなかったのに今や(ユニットの方で)書くようになり、割と頻繁に台本制作の依頼まで来るようになったのも、台本を超える表現をすることがいかに大事かを意識できているのも、笑いを超越したところに価値を見出だせるようになったのも、落語からの学習が大いに影響しているのは間違いない(勿論それだけではないが)。

ロックなどのポピュラーミュージックでいわれているブルースのように、それを通っているかどうかで地力に差が出るという点で、落語とはブルースなのである。

 

重要視するのは噺よりも演者

ところで落語を好きになると「好きな噺はありますか?」という質問を受けることがある。
まあ好きな噺自体あるにはあるが、やはり自分自身が表現者である以上、重要視するのは噺よりも演者である。これがまた落語の面白いところなのだが、同じ噺でも演者によってまったく見え方が変わるのだ。
例えば『小言念仏』という古典噺がある。僕が尊敬する噺家の一人である十代目柳家小三治師匠の十八番だが、小三治師匠はこの噺を、まるで目の前で展開されているかのような圧倒的な芝居力によるリアル感で笑わせてくれる。
対してこれまた僕が尊敬する三代目三遊亭金馬師匠は、この噺を完全に音とリズムで笑わせにきているのだ。
古典噺ならなおのことだが、噺をただ伝えるだけでは舞台人である意味がない。演者がどう解釈しどう表現するかこそが重要視されるのは当然だ。噺家はそれをわかっている。だが残念ながら現代のお笑いでは作家芸人の方が評価され、表現において代わりのきかない個性を持つ者、少なくともそこに意識を置いている者がとても少ない。たまにネタ中に乱入して「君たちはなぜ舞台に上がってきたの?」とパワーハラスメントを行いたくなるときもある。やらんが。

上記の通り落語は演者で見ているが、最も尊敬しているのは六代目三遊亭圓生師匠である。個人的にはお笑い芸人の歴史上、わかっている限りでは実力ナンバーワンはこの人ではないかと思っている。
いわゆる爆笑型の芸人ではないため、大袈裟な表現は一切せず、しっとりと軽妙洒脱なお江戸の芸を究極的な領域まで高めた人である。
そもそも優れたお笑いの判断基準として、笑いの量が最も重要視されているようではお笑いはまだまだだ。それはひとつの大事な要素ではあるが、お笑いはその程度のものであってはならない。それはいうなれば最も大仰でわかりやすいサビのあるロックやポップスが最も優れた音楽と言っているようなものである。
芸の究極は引き算の向こう側にある。それを最高レベルで体現している芸人の一人が圓生師匠なのだ。

上で挙げた十代目柳家小三治師匠も、その圧倒的な表現力、特に『間』の使い手として僕が唯一現時点で敵わないと思っている人である(御本人は亡くなられているが)。この人の芸も間違いなく引き芸だが、そのうえで笑いの量でも最強レベルなのが凄い。

しばしば議論される『一番面白い芸人は誰だ』というテーマに対して、(勿論どこに基準を置くかにもよるが)正直僕は個人としての実力で見れば圓生師匠をはじめ、上位陣はほぼ噺家で埋まると思う。
やはり現代の芸人(特にテレビ文化以降の芸人か)は集団芸の中で生きていくことを前提で活動しているため、その中で己のポジションを見つけ、その才能を伸ばしていくことに重きを置いているが、それは裏を返すと自分の苦手分野は周りが補ってくれるという、ある種の甘い考えが前提にあるのだ。
対して噺家というのは完全にソロの人たちゆえ、振りもボケもツッコミもトークも芝居も全て自分一人でやらなければいけない世界で戦っている。それも最低限の動きと小道具のみで。当然ウケてもウケなくても自己責任である。逆にいうと集団芸は苦手な人たちゆえ、テレビで活躍している噺家は少ないが。

そんな噺家を我々現代の芸人がどう超えていくのか、これに関しては僕自身まだ答えを探っている最中だが、今後の芸人人生を賭けて向き合っていくべきところだと思っている。

「ブルースを知らずにロックやポピュラーミュージックなんてやるべきじゃない」とはキース・リチャーズの言葉(ストーンズ回じゃないのに何度も名前出してごめん)。
極端だが、落語という文化へのリスペクトなくしてお笑い芸人なんてやるべきではない。
と、お笑いを愛する(お笑い好きとは違うのでご注意)芸人だからこそやや強い言葉で言わせてもらった。

というわけで最後に芸人として伝えたかったことを書かせてくださった5pm Journal様、そしてここまでの僕のコラムを読んでくださった皆様ありがとうございました。

数年後に読み返して恥ずかしくなるのが楽しみ。