道端やガードレール、はたまた木の枝。我々は街のあらゆる所で、片手だけになった手袋を見かける。一見するとただの落とし物であるが、本記事の執筆者・石井公二にとっては愛すべき偏愛対象。”片手だけになった手袋”を「片手袋」と名付け片手袋研究家として活動を続けていく中で見えてくること、また偏愛ゆえの苦悩を語る。
突然、雷に打たれたような衝撃を味わった夜
片手袋研究家。それが私の肩書だ。
町のいたる所で見かける、片方だけになってしまった手袋を“片手袋”と名付け、20年近く研究し続けてきた。
誰でも一度は見たことがあるだろう。
「何でそんな馬鹿なことを?」と思ったあなたも、油断しない方が良い。人生を狂わせるような転機は、案外道端に転がっていたりするのだから。
20年ほど前、初めてカメラ付き携帯を手に入れたある日のこと。深夜、コンビニで買い物をしようと玄関の扉を開けたら、家の目の前に片手袋が落ちていた。何の気なしにしゃがみこんで、それを携帯で撮ってみた瞬間。私の全身に雷で撃たれたような衝撃が走った。
「これだ!これをやるために生まれてきたんだ!」
子供の頃から些末な事象が気になる性格だったこと。大学生の時、路上観察のパイオニアである赤瀬川原平を卒論のテーマに選び、路上が内包する無限の可能性に惹かれていたこと。それまでの人生で蓄積されていたものが、片手袋という形に集約されて私の目の前に現れたような気がした。
その時以来、取り憑かれたように片手袋のことを考え続ける日々が始まった。それぞれの類似点や相違点を積み重ねて片手袋の分類図を完成させた時は、何とも言えない幸福感に包まれた。
片手袋分類図。3段階を経て判断する片手袋の分類法を図式化したもの。
「私は今、まだ誰も気づいていない世界の側面に触れつつある!」…
「偏愛」は時に人を苦しめる
「偏愛」昨今、夢中になれることがなくて悩んでいる人も多いと聞く。もしかしたら、自分だけの世界に耽溺できる人は幸せに見えるかもしれない。私も片手袋研究を始めてしばらくは、充実した毎日を過ごしていた。
でも、本当のことを言うと辛いことも多い。偏るということは、普通経験しなくて良い苦労や苦痛と常に隣り合わせだ。私の場合、研究の精度を高めるために設定したはずの自分内ルールが問題となった。いつの間にかそのルールが自分の行動を縛り付ける足枷として機能し始めたのだ。
例えば研究を開始したごく初期の頃、より多くの片手袋を記録して研究サンプルを増やすために、「片手袋と出会ったら必ず撮影しなければいけない」というルールを設けた。でも、いつの間にかそれは「片手袋を見つけたら撮影しなきゃいけないんだ!」という強迫観念に変化していた。
どんなに急いでいても片手袋があったら立ち止まって撮影。バスやタクシーの中から見つけてしまったら、わざわざ途中下車して撮影。どうしてもそれができない状況なら、用事を済ませて帰宅してから自転車を漕いで現場まで戻り撮影。「徹底している」というよりは、撮らないことに対する罪悪感に耐えられなくなっていたのだ。
では、家の中は安全か?というとそうでもない。技術の進歩は時に残酷で、Googleストリートビューの登場により、自宅から世界中の片手袋探しが出来るようになってしまった。夜寝る前、暗がりで布団に寝っ転がってストリートビュー片手袋探しをしていたら、スマホの画面に酔ってしまい吐いたことがある。もう、安全な場所なんてどこにもなくなった。
片手袋研究を始めてから、映画なども普通に見られなくなってしまった。何故なら世界中の映画や文学や漫画の中にも、片手袋は登場するからだ。そうなると創作物の中に出てくる片手袋のリストアップも研究課題になってしまう。昔は映画が好きで映画を見ていたのに、今は(片手袋が出てくるかもしれないから…)という理由で見ている。
拙著『片手袋研究入門』(実業之日本社)より、「片手袋が登場する創作物」一覧
決定的だったのは、妻に思い出の写真を見せてもらっていた時のこと。幼き妻の背後に片手袋が映り込んでいたのだ。背筋がゾッとした。「これは趣味や研究なんかじゃない。呪いなんだ…」
幼き妻の背後、何故か片手袋が映り込んでいる
何故「呪い」を引き受けるのか?片手袋から見えてきた世界
「でも、だったらさ…」と、あなたは言うだろう。「そんなの、やめればいいだけじゃん?」
それは確かにそうなのだが、やはり呪いを引き受けるだけの理由がそこにはある。
私は学生時代、この世の中にどうやって存在していれば良いのか分からなかった。ただ二本足で立っているその状態でさえ、何か間違っているような気がして姿勢はフラフラと安定しなかった。ずっと、誰かに世界の見方を教えて欲しかった。私にとってその“誰か”が、片手袋だったのである。
例えば放置型片手袋と介入型片手袋の違いを考えてみる。放置型とは誰かが落として道端に放っておかれているもの。一方、介入型とは落ちている片手袋を誰かが拾ってあげて、落とし主が見つけやすいような場所に移動してあげたものである。
放置型片手袋と介入型片手袋
放置型を見ると、2つ揃いで意味を成すものが1つだけになってしまった悲しみを感じる。「我々人間は、結局1人で生まれて1人で死んでいくしかないのだ」という厳しい現実を突きつけられているようだ。
一方、介入型はどうだろう?人と人との関係性が希薄だと思われがちな都会でも、見ず知らずの人が落とした片手袋を拾ってあげるくらいの優しさは当たり前に溢れている。我々は確かに1人だが、気付かないうちに誰かに支えられていることもまた事実なのである。
介入型片手袋は、落とした人と拾った人の人生が一瞬の交わりを見せる結節点である
ある年のクリスマス。日比谷の外資系ホテルの前を彩る、綺麗で豪華なクリスマスツリー。その向かい側の道路に、軍手の片手袋が落ちていた。
軽作業類放置型車道歩道系片手袋(手前)と、外資系ホテルのクリスマスツリー(奥)
恐らく工事現場とか配送用のトラックの荷台から落ちてしまったのだろう。つまり、日比谷や銀座の華やかさを楽しむ人もいれば、その風景を作るために働く人もいることが1枚の片手袋から見えてくるのだ。片手袋は、普段意識することのない都市の複雑なレイヤーを可視化する。
日々すれ違っているのにまったく意識することのない、何万という他人の存在。慣れ親しんだものがどんどん消えていき、常に変化していく都市。捉えどころのないこの世界と対峙しても、不思議なことに片手袋という落とし物を通せば明確に私の視座は定まるのだった。
世界の見方が、生きる指針が片手袋なら、辛くてもやめるという選択肢はない。片手袋とは、偏愛とは、呪いである。しかしそれは、楽しい呪いである。