高尚な音楽と思われがちなクラシック音楽だけれど、本来はポップスやロックと同じで誰もが楽しめる懐の広い音楽だったはず。この連載では、写真家・大森克己が案内人となり、クラシック音楽にこれから触れようと思っている人のために音楽評論とは違った視点でクラシック音楽を解説。第一回目はみんなご存知モーツァルトの楽曲から偏愛する一曲を紹介する。
「オオモリさんはクラシック音楽に詳しいですよね? 自分も興味があって聴いてみたいのですが、いったい何から聴けば良いのか教えて頂けませんか?」という風に仕事仲間の若い人に訊ねられることがある。時折、雑誌やウェブマガジンでクラシック音楽に関するコラムを書いたり、コメントすることがあるからだろう。実際のところ、世間でクラシックとジャンル分けされている音楽のなかに大好きな曲や演奏はあるのだが、自分の好みはかなり偏っているし、ポップスでも、ロックでも、ラテンでも、ジャンルに関係なくその時々にピンと来たものを聴いているだけでクラシック音楽というよりは、ただ良い音を聴きたい、グッと来る音楽と出会いたい、と思っているだけなのだ。しかし、確かにいまサブスクやYouTube などの動画サーヴィスで無限に音楽が聴けてしまう状況で、ちょっとした水先案内のようなものは必要とされているのかもしれない。
そんな訳で、偏愛メディア「5PM Journal」にそそのかされて、極私的な偏愛クラシック案内を綴ってみることにした。
光の粒子を感じる1分30秒の白昼夢
初回は
『小さなジーグ K.574』ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト
https://open.spotify.com/intl-ja/track/1DjEVBS7zvDeNCBQjgfsjg?si=N378hXLaSKq-gcX1ES8zlQ
11月の木曜日の昼下がり。快晴だが今年の天候は不順で妙にあたたかく、外気は22℃もある。いま自分がパソコンのキーボードを打っている集合住宅の8階の部屋に光が斜めに射している。テーブルの上の透明のグラスに入れた紅茶は宝石のようだ。手にとって口に含むと、甘さと苦さが追いかけあっている。窓がかすかにうなり、南風がじょじょに北風に変わる予感がしてベランダへ出てみると、近くの誰かが箒で地面を掃く音がする。遠くでは救急車のサイレン。突然思い出すいろんなこと。久しく会っていない友人の顔、戦争のニュース、税金の支払い、新しいメールの着信を知らせる赤い数字、さっき食べたパスタ・ポモドーロ、足を組み直した時のデニムのパンツの衣擦れ。昼間なので明る過ぎて見えないけれど、濃い青空の彼方の星の輝きを、ほんのかすかに感じてしまう。とりとめのないさまざまなことがらは、ただとりとめもなく、しかし、たしかに自分はいま生きていて、それは宇宙のなかのささやかなできごと、時間のなかのできごと。明日からどうやら冷え込むらしい。
光は、電磁波という波の一種です。そして、粒子つまり「物」としての性質も持つ不思議な存在です。波といえば、石を投げたときに池の水が輪を描くように広がっていく様子が思い浮かぶかもしれませんね。水面に山と谷が交互にできて、周りへと伝わり、波は広がっていきますよね。光にも同じような性質があります。目には見えなくても宇宙空間には、そして部屋の中にもいろいろな波が飛び交っています。そのひとつがよく耳にする、電磁波であり、光もこのなかまなのです。
(キヤノンサイエンスラボ・キッズ『光のなぞ』より https://global.canon/ja/technology/kids/mystery/m_01_04.html )
https://open.spotify.com/intl-ja/track/5SerM02vT2i5z8rGmDwB31?si=lXoxjYM8R0mOLUNsz0-_xg
日々の暮らしのなかで、ひょんなことから、目の前にあるものが一体どこからやって来たのかとか、時間ってなんだろう、とか考えてしまうことがある。いまここにいる自分が宇宙の一部であるいう実感。身体から意識がフワッと抜けていってしまいそうな白昼夢。
モーツァルトのピアノの小品『小さなジーグ』(K.574)はまさにそんな状態を表象している宇宙旅行のような音楽だ。600あまりもあるモーツァルトの作品の中でも、ダントツに短い曲で、ほとんどのピアニストの演奏は90秒前後である。ピアノの音の一つひとつが光の粒子のように聴こえて、かけがえのない写真を見るようでもある。瞬間のなかにすべてがあって、すべては初めてで、すべては繰り返す。哲学と預金残高、官能と法律、勤勉と退廃。そんないっけん相反するようなことばや感覚が同時に立ち上がって来ることに心が震える。初めて聴いたときには、時間が止まってしまったようで、自分が時空のねじれのなかに存在していることをリアルに感じてしまった。孤独だが、まったく怖くない。
https://open.spotify.com/intl-ja/track/5yK5EsQtlOdIHIp7WZ2PYb?si=xUAlI6HsRHSHmvLIDV2UPg
知らないあいだにモーツァルトに出会っている
ザルツブルグ生まれの作曲家、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756~1791)の作品はクラシック音楽に積極的に触れる機会の少ない人でも一度は聴いたことがあるに違いない。駅の発車を知らせるチャイム(東武東上線池袋駅 K.136とK.525 第三楽章)、携帯電話の着信音、ホテルのエレヴェーターの中でのBGM(K.331やK.545などの数々のピアノソナタ)、映画、CM(レクイエム K.626 、交響曲25番 K. 183、ピアノ協奏曲 K.467 第二楽章)などなど。聴いたとたんに「あー、あの曲だ!」となる人は多いのではないかしら。ボクが一番初めに聴いたモーツァルトは小学校の掃除の時間にいつも流れてたアイネ・クライネ・ナハト・ムジーク(K.525) 。それがモーツァルトの曲であることを知ったのはずいぶん後になってからだったように思う。知らないあいだにボク達はすでにモーツァルトに出会っているのだ。
あらゆる芸術と同じく、クラシック音楽の歴史的背景や文脈を知ることによって、アーティストやその作品に対する理解が深まることは確かにあるけれども、文脈抜きに雷に打たれるように音楽に遭遇する読者の楽しみを奪いたくないので、ボクからは1つだけ伝えたい。モーツァルトは幼少時代、6歳の時にウイーンの宮殿で女帝マリア・テレジアの前で御前演奏をした際に磨き上げられた床で転んでしまうのだが、その際、モーツァルトにかけよって助け起こしてくれたのが、のちにフランス王妃となる、当時7歳のマリー・アントワネットだったそうだ。そしてモーツァルトは彼女に「大きくなったら僕のお嫁さんにしてあげる」とプロポーズしたと伝えられている。その後2人は再会することはなく、モーツァルトはフランス革命とほぼ同じ時期、バスティーユ襲撃の2年前に35歳で亡くなっている。ひょっとして明日、社会の根幹を揺るがすとんでもないことがはじまるかもしれない、そんな革命の予兆のようなものが彼の音楽のなかには確かにある。
(ちなみに K. 000 っていうのはケッヘルという音楽学者が作ったモーツァルトの音楽作品を時系列的に配列した番号で、ネット検索の際、交響曲なんたらかんたら、といれるよりMozart K.565 みたいに入力すれば簡単です。)
では、また次回に!