すべては河合奈保子から始まった

2004年の春のことだ。

私は家で「タモリ倶楽部」を見ていた。

その日の内容は、河合奈保子さんの歌の振り付けを踊りまくるというものだった。スピーカーから流れる河合奈保子さんの歌に合わせて、完コピしたダンスを披露する男性(!?)出演者たちを見ながらふと思った。

「これ、ダイエットに使えるかも」

当時の私は運動不足による体重増加に悩んでいた。何か運動をしたいが、元陸上部の私には、速くなる為ではなく痩せる為に走ったり運動したりするという事に拒否感があった。

そんな私の背中を押したのが運動というより遊びに感じられたダンスだった。幸い私は1980年代に10代を過ごしており、同世代の全員がそうであるように80年代アイドルファンだ。特に2004年のその頃は、80年代アイドルが全盛期に出演していた番組映像(自分で録画したものや同好の士から譲り受けたものなど)をDVDに焼いて整理するのを趣味としていた。振り付けを完コピするなら、そこから歌のシーンだけ切り抜いてそれをまとめたDVDを見ながらマネればいい。

「問題は誰の振り付けを完コピするか」

80年代当時の映像を見返しつつ自分の持つ80年代アイドルの知識を総動員しつつ、誰を振り付けの先生にするか熟慮した。数日後、私は「松本伊代シングルベスト」と名付けたDVDを焼いていた。

アイドルとは松本伊代のこと

松本伊代さんは、いわゆる「花の82年組」の1人だ。

中森明菜さん、小泉今日子さん、石川秀美さん、早見優さん、堀ちえみさん、シブがき隊が同期で日本のアイドル史上最高の当たり年と言われた1982年。実は松本さん1人だけ本当は81年のデビューなのだが、そういう事は気にしないし気にさせない勢いが当時のアイドル界隈にはあった。

歌は普通、演技は大根、スポーツも苦手なのになぜか芸能人水泳大会では決勝に残っている。そんな「ひたすら可愛いだけで何もできない」というアイドルの王道イメージを今でも貫いている唯一のアイドルだ。

同じ82年組の中森明菜さんがその高い歌唱力から「歌姫」と呼ばれ、小泉今日子さんが「アーティスト」になり、石川秀美さんが「スポーツ」で名をはせ、早見優さんが「バイリンガル」で活躍の場を拡げ、堀ちえみさんが「女優」として成功するのを横目に、松本伊代さんはアイドルの枠から一切出なかった。

ただ可愛いだけ。アイドルにとってそれ以外のオプションはノイズだ。

かつて斉藤由貴さんが、デビュー当初の「寡黙で影のある美少女」というイメージについて、「需要に応えただけ」という名言を残しているが、松本伊代さんはまさにアイドルファンの需要に応え続けている。その証拠に、日本のアイドル史上松本伊代さんだけがデビューから何年経っても何歳になっても前髪をおろしたままオデコを出さないでいる。

松本伊代さんに関して印象的な思い出が2つある。

ひとつはデビュー直後の松本さんを初めてテレビで見た時のこと。当時の私の中学校には絶対にいないし、私のクラスの女子の延長線上にもいない、どこか別から現れたような可愛らしさに度肝を抜かれたことを覚えている。

もうひとつがペン回しブームの火付け役であること。デビュー間も無い松本さんがTBSテレビの「ザ・ベストテン」に初出演した際、特技としてペン回しを披露したところ、翌日から日本中の小中高大学でペンがクルクル回された。

私もその1人で、家でも学校でも練習し続けて数日間かけて会得したのを覚えている。ペン回し自体を発明したのは松本さんではないらしいが、今も多くの学生がペンを回しているその文化の元祖は間違いなく松本さんだ。

では、そんな可愛さとペン回しだけのアイドルを、なぜ私は振り付けの先生に選んだのか?

ひとことで言うと、松本伊代さんしかいなかったからだ。

松田聖子も中森明菜もいらない

誰の振り付けを完コピするか決める時、私は3つの理由で松本さんに行き着いた。

第1に「難易度」。

学生時代に運動部だったとはいえダンスの経験が無い私には難しい振り付けは無理だ。例えば、クラシックバレエ歴10年の経験を取り入れた中森明菜さんの振り付けはマネしたくなるほどカッコイイがハードルが高すぎる。同じく中山美穂さん、荻野目洋子さん、小泉今日子さん、長山洋子さんの振り付けも難しい。特に中山美穂さんに関しては、個人的には80年代~2000年代を通して一番難しい振り付けをしてたのではないかと思っている。それまで中山さんにはダンスのイメージは無かったのだが、マネしようと思いながら見て初めて気付いた。

逆に松田聖子さん、薬師丸ひろ子さん、斉藤由貴さん、南野陽子さんの振り付けは簡単すぎて却下。基本的に体を左右に揺らしながら、たまに手をチョコチョコッと動かす程度で完コピしても達成感が無さそうだ。

その点、松本伊代さんは、スポーツが苦手なのをちゃんとスタッフが理解していたためか、振り付けがやや簡単なデビュー曲の「センチメンタルジャーニー」(それでも難しいポイントはあり、「伊代はまだ16だから~♪」の部分はタイミングも腕の動きも会得するまでに随分かかった)からシングルを出すごとに徐々に難しくなるという、まるで私を育成するためかのようなディスコグラフィーだった。

第2の理由が「運動強度」。

目的は運動不足解消とダイエットなのだが、とは言え、最初からキツイ運動では1曲踊りきれなければ完コピも何も無い。ここで河合奈保子さん、石川秀美さん、Wink、BaBeなどが落選。元バスケ部で運動神経バツグンの石川秀美さんはともかく、私的に意外だったのが河合奈保子さん。実際にマネしようとしてみると、多分あの胸を強調しようとした振り付けなのだろうが、ジャンプするような縦の動きが多く、まだ運動不足だった私は途中で息が上がってしまった。WinkやBaBeは運動量が多すぎる上に、当時のアイドルの振り付けの流行で、メンバーそれぞれが違う動きをしてそれが合わさることで完成するというものだったので私1人では成立しない。

一方で松本伊代さんの振り付けは、デビュー曲から3曲目の「TVの国からキラキラ」まではそれぞれ1曲通すと薄っすら汗をかく程度の運動強度。続けて踊ると4曲目の「オトナじゃないの」の激しい動きで息が上がったところを5曲目の「抱きしめたい」で一休み。そして運動量の多さも難易度も最高の「チャイニーズ・キッス」「太陽がいっぱい」に突入、という具合に効果的なペースで脂肪を燃焼できそうだ。

そして私が松本伊代さんを選んだ最後の理由が「アイドル本人の上手い下手」。

実は当初は、一番のファンである早見優さんの振り付けを完コピしたいと考えていたのだが、早見さんはこの企画には合わなかった。理由は、松本さんより早見さんの方が振り付けが下手だから。これは早見優さん本人が言っている事なのだが、アメリカ育ちで子供の頃からフィーリングで踊るアメリカの歌手を見てきたため、日本のアイドルのように決まった振り付けで歌うというのが嫌だったという。そのため大ヒットした「夏色のナンシー」を含めほとんどのシングル曲で振り付けはテキトーに踊っていたのだとか。見本がテキトーではマネしようがない。

一方、松本伊代さんは毎回同じ振り付けをトレースしていて、私が知る限り「この前と違う」という事は一切なかった。

松本伊代はまだ16だから

こうして熟慮の上に選んだ松本伊代さんを先生として、私は2004年の春から夏までほぼ毎日リビングのテレビの前で踊り続けた。平行して踏み台昇降を行ったり、後半にはウォーキングも取り入れた成果もあってか、食事制限なしで秋までに十数キロのダイエットに成功。私は健康と特技を一挙に手に入れた。

あれから20年弱。

改めて今、運動としてアイドルの振り付けの完コピにチャレンジするなら?

それでも私は80年代アイドルを選ぶし、松本伊代さんに行き着くと思う。

素人がゼロからマネするなら、カンタン過ぎず難し過ぎずキツ過ぎず楽過ぎない振り付けで松本伊代さんを超えるアイドルはまだ出ていないから。なにより、いま完コピすれば「センチメンタルジャーニー」の振り付けができる唯一の人類になれる筈。

いや松本伊代さん本人は?

忘れてるに決まっている。なにしろ、あの松本伊代さんなのだから。

可愛いだけで何もできない、振り付けなんかいつまでも覚えているわけがない。そんな松本伊代さんが10代の私は好きだったし、今の私も好きなのだ。