オカルト、格闘技、デビルマン、プロレス、江戸川乱歩、ブースカ、ウルフガイシリーズ、寺山修司、アメリカン・ニューシネマなど、ちょっと怪しげなものを好む、筋肉少女帯のボーカリスト・大槻ケンヂ。さらに無類のUFO好きとしても知られ、自身が手がけるエッセイや詞のモチーフとしてもたびたび登場している。今回の記事では改めてUFOとの出会い、そして魅力について語っていただいた。

20代後半、UFOを好きになり

 「UFOを好きでたまらない理由」を述べてくださいとのお題である。
 ちなみに最近はUFO (未確認飛行物体)ではなくUAP (未確認空中現象)と呼べと米国国防総省などがアップロードを推奨している。でも一般化はしていないようだ。
 その昔に江戸川乱歩の怪人二十面相が、今後は自分を怪奇四十面相と呼ぶようにとアップロード自己申告したが現代でも誰もが彼を怪人二十面相と呼ぶ。UAPという言葉も怪奇四十面相同様に今さら浸透は難しいんじゃないかなぁと思う。

 さてそれはさておき、僕がUFOを好きでたまらなくなったのは意外に遅くて、20代後半だった。それ以前は昭和40年代男として普通に、呑気なビリーバーとして、空飛ぶ円盤に乗って宇宙人が時たまに地球に現れる、そんなこともあるんじゃないかなぁ、くらいに考えていた。

UFOにまつわる3冊の本

 ところが1990年に出版された志水一夫著『UFOの嘘』という一冊の本をたまたま読んで、UFO問題はそんな単純なものではないと知ったのである。『UFOの嘘』は、マスメディアにおけるUFOの扱われ方のいい加減さ、フェイクなどに疑問の一石を投じた書籍だ。僕はこの本によってUFOや超常現象に対する懐疑派(スケプティクス)の存在を知ったのである。不思議な現象に対してそれを信じる信じないの二元論で考えるのではなくて、その現象とは一体何なのか、キチンと検証してみましょうという、考察者としての立ち位置である。

 たとえば『UFOの嘘』では、僕ら昭和の子供がなんの疑いもなく観ていた矢追純一プロデューサーのUFO番組に対して、実際にはどうだったのか? どこまでがリアルなルポで、どこからが演出なのか? そのカラクリを解説してみせる。
 そんな発想がまるでなかったからまるで手品の種明かしを初めてみた者のように、僕は大げさに言えば知覚の扉が開かれたかの驚きを持って、世界の大きさ、深さにたじろいでしまったのである。

 そして次に1992年に出版された稲生平太郎著『何かが空を飛んでいる』と言う本を読んだ。こちらにはガーン!と殴られたかの衝撃を受けた。『何かが…』において著者は、不思議な現象が実際にあったかなかったか以上に、もしなかったとした場合でも、ではなぜそんな奇妙な事件があったと述べる人がいるのか?なぜ彼らはそんなことを言う必要があったのか?そして全世界に、太古の昔から、そのような奇妙なことを言い出す人が絶えないのは一体なぜか?その心理は?背景は?とずらした視点からUFO現象を捉え、そこから都市伝説、民間伝承としてのUFOという側面を導き出し、読み解いていこうと試みる。

 たとえば宇宙人からパンケーキをもらったという事例に対し、そんな変なことが実際に発生したのかよりも、古くから伝わる妖精遭遇談との共通点に着目し、なぜ宇宙人に会った話と妖精に惑わされた話との間に、近似点があるのか?を考察する。この不思議現象に対する視点のずらし方が僕にはとても新しいものとして感じられた。「面白い!」と思った。

 またもう一冊、ジョン・リマー著、秋山真人訳『私は宇宙人にさらわれた!』という、タイトル通り宇宙人によるアブダクション(誘拐)事例をまとめた本を読んだ。これにも驚かされた。 
 本書ではアブダクションについて宇宙人による誘拐という定番の仮説を紹介しつつ、出産時に産道を通った体験によるトラウマを原因とする幻覚なのではないか、とか、親などによる幼少時の虐待体験を、辛すぎる思い出が故に宇宙人の仕業に置き換えてせめて心を癒そうとしているのではないか、などと、奇想天外な事件をさらに奇想天外に真相考察していて「うむ、こんな考え方があるのか」と僕は目から鱗がポロポロと落ちるような気持ちで熟読した。そうして決定的に、UFOを好きでたまらない男、と化していったのだった。

学生時代スルーを決め込んだ、全てとクロス

 おそらくあの時の僕の没頭ぶりは、向学心、だったのではないかと今になって思うのだ。僕は学生時代、自慢にもならないが1分1秒も勉強をしなかった。尾崎豊とほぼ同世代の僕にしてみればそれはせめてもの学校や制度「この支配からの卒業」のつもりであった。勉強したら負け、くらいに思っていた。若さとは馬鹿さである。イキっていたのだ。だから1分1秒も勉強をせず、個人的な読書や映画やロックバンドに夢中になっていたのだ。

 でもどうも、どんな人にも向学心…勉強欲みたいなものがある一定の量心と体の中にあるようだ。抑えきれなくなった勉強に対する欲望が、ある時急に爆発することがある。それが受験の時期に起こったなら人生かなりバッチリであるし、大体の人はちょうどそこらで自主的に爆発のスイッチを押すことになるのだ。

 でも、僕の場合は全く以てそのタイミングと対象が人とずれてしまったのだ。ようやく20代後半にもなってついにその向学心の爆発が来たときに、よりにもよって開いていたのがUFOやアブダクションの書物であった!という、人生いろいろなわけである。

 しかし学び始めてみればUFOについての勉強はとても面白かった。

 UFO問題は、そこから入ってすべてのジャンルにアクセスすることができる。歴史、民俗学、心理学、語学、その他諸々、UFOから始まってどんな興味へでも一瞬でワープすることができるし、国語算数理科社会、学生の頃にスルーした全てとクロスしていく。まさに勉強になる。

 

 またUFOに興味を持つとたくさんの変な人にも会う事ができる。街中でいきなり「大槻さん、あのUFO研究家の月面の写真は全部インチキですよ~!」と言っていきなり胸ぐらを掴んでくる知らない人とか「宇宙人と待ち合わせしたんだけど『8時だよ!全員集合』が観たいからちょっと待ってろって待たせてやったよ、宇宙人を。イヒヒヒヒ!」と笑う芸術家の老人とか…上げていったらキリがないがそんな変な人に数多く遭遇することができたのだ(それが良いことかどうかはわからないが)。

 とにかく、あらゆる要素にアクセスすることのできる不思議へのハブであるUFOについて見聞きする事は知的興奮に満ちていてとても楽しいのだ。僕はUFOを好きでたまらない。

 だけど、どんな趣味でもそうだけど、この面白さが他人にたやすく伝わるとは僕は思わないし、実際にそうでないこともわかっている。

 だって興味がわかないものには人って興味がわかないものね。僕も例えば山登りの魅力について誰かにこんこんと説明されても「冬のナントカ峠がまたいいんだよね」とか言われても絶対に興味がわかないし登山はしない確信がある。

 「なぜ山に登るのか?そこに山があるからだ」と言われてもちっともピンとこないよ。逆に「なぜUFOを好きでたまらないのか?そこにUFOがあるともないとも言えないからだ。だって未確認飛行物体だからだよ、あるともないとも言えないんだよ、そこが最高なんだ!」と答えても、登山家も誰も彼もピンときてはくれないだろう。

 

 最後に「で、大槻さん個人は、UFOの正体をなんだと思っているの?」という問いに応えるならば、だからやっぱりわからないとしか言えないのだ。わからないから、考える。わからないから、いつまでだって考えていられる。その謎解きゲームが脳に気持ちがいいのだ。気持ちがいいからUFOについて考えるのが好きなのだ。それが僕の「UFOを好きでたまらない」一番の理由だ。そして、その答えは、きっと永遠に出ることはない。