幼少期に食べたビリヤニの味が忘れられず、理想の味を追い求め「流しのビリヤニ」活動を始めたビリヤニ偏愛人・奈良岳。味覚を刺激するスパイス、独特の食べ心地バスマティライス、炊き加減のタイミング、彼が追求するビリヤニの世界を全5回にわたり紹介。第1回は、ビリヤニとの出合いを語る。

いきなり閉ざされた、ビリヤニインフラ。

「このビリヤニ、うちのバーで出してよ」

2017年夏頃、20代半ばの私、奈良は、DIYでリノベーションをしながら住んでいた三軒茶屋の一軒家で、そんなことを言われて戸惑った。「流しのビリヤニ」としてさまざまな場所でビリヤニを提供する活動は、この一言から始まることになる。

建築の仲間で始めたその一軒家、通称「三茶ハウス」は、2階に各々の部屋があり、1階のキッチンやリビングは、毎夜さまざまな人が訪れる遊び場となっていた。ビリヤニを作っては、遊びに来る人に半ば強制的にビリヤニを食べさせて、感想をせびっていた。

そもそもなぜビリヤニを作り始めたのか。

ビリヤニとの出会いは、幼稚園のころに遡る。

 

奈良家はいわゆるエンゲル係数高い系の家庭だった。パエリア専用鍋や石焼きビビンバの石、パンを捏ねるための大理石プレートなど、さまざまな調理器具が揃っており、母はそれを使いこなしていた。

当時、母の妹である叔母にはパキスタン人のパートナーがいた。当然、母はそこからスパイスの使い方を吸収していた。幼少期からスパイスから作ったカレーが当たり前。給食ででてくる普通のルーカレーをねだった記憶があるほど、カレーといえばスパイスカレーが当たり前だった。しかし唯一母が作らないメニュー、それがビリヤニだった。奈良少年にとって、ビリヤニは、叔母が遊びに来たときにだけ食べられるご馳走だった。

バスマティライスのいい香りやパラパラとした食感、カレーとはまた違うスパイスの食欲をそそる香り。その全てが奈良少年の味覚と嗅覚をやさしく刺激した。多くの子どもがハンバーグで喜ぶのと同じように、ビリヤニにテンションが上がる5歳児。私はその、他の何にも代替できない料理の虜となり、叔母が家に訪れるたびにビリヤニをねだる変な子どもだった。ビリヤニ食べ手歴27年。当時は当たり前のことすぎて気付かなかったが、今思うと貴重すぎる食体験。

 

しかし、名店の味がいつかは失われてしまうことと同じように、奈良少年とビリヤニにもまた、別れが訪れる。ビリヤニインフラであった叔母がドバイに移住してしまったのだった。ビリヤニが絶たれ、その存在は過去となり、記憶の引き出しの奥の方で眠ってしまう。多摩ニュータウンに住んでいる少年の生活圏や同級生との会話の中に、ビリヤニが再登場するはずがなかった。

ビリヤニロスから燃え上がった探究心

時を2017年の三茶に戻す。

就職をきっかけに実家を出て、三茶に住む多くの若者がそうであるように、三茶の街で飲み歩き、そしてお金が無かった。

外食ばかりはしていられないので自炊をするようになり、自らの食欲を自分で満たさねばならなくなった。一体自分は何が食べたいと思っていて、何を自分に食べさせることができるのだろうか。そんなことを毎日腹を空かせながら考えていると、ふと、昔大好きだったビリヤニのことを思い出す。ビリヤニの味覚と嗅覚の記憶が、10年の眠りから目を覚ます。その記憶が、いますぐ自分自身にビリヤニを食べさせたいと訴えかけてくる。

欲求を満たすべく、ビリヤニを出す店を食べに歩いたり、たまに各所で開かれる料理教室に参加したりした。当時は、今よりビリヤニを出す店は限られていたし、ビリヤニの知名度も地の底にあった。新大久保のスパイスショップ、世田谷の週一回しかビリヤニを出さないカレー屋、八潮のパキスタン人街、野田の外れのインド料理屋まで。しかし、あの5歳の感動の味を超えることはない。自分の住む家を自分でリノベーションしたいと思うことと同じように、自分の好きな食べ物を自分で作ることができたらどんなに幸せだろうかと思う。当時の私にとって、ビリヤニづくりを始めることは、至極当然な流れであった。

千本ノックのように、ひたすらビリヤニを炊く日々

チキンのカットの仕方、スパイスの量、玉ねぎの揚げ具合、バスマティライスの湯で時間、ビリヤニを炊く火加減。ビリヤニは、微妙な違いで出来上がりの味が大きく変わってしまう。部活終わりに公園で素振りをする野球部員のように、仕事終わりに毎回微調整を加えながらストイックにビリヤニを炊いていく。もっと美味しくなるはずだと。三食ビリヤニなんてことはざらだった。大量に炊きあがるビリヤニを、訪れる人や同居人に食べさせる日々。何回も炊いているうちに、それを食べたひとりが言った。

「このビリヤニ、うちのバーで出してよ」

知る人ぞ知る神宮前2丁目の民が集まるバーでビリヤニを提供することに決まった。今思えばこれが、まだ「流しのビリヤニ」という名前すらつけていない、はじめての“流し”だったと思う。お金を頂いている限り下手なものは出せない。体育会系の部活を避けてきたが、初試合に望む選手の気持ちはこんな感じなのだろうか。不安と期待と鍋と材料を背負い、肩で風を切る。あまり知られていなかったビリヤニという未知の食べ物の魅力を伝えるために。