子供のころ見ていたアニメの主題歌。
僕は30代になった今でもスマホに入れて聞いている。
聞くのは大体90年代のアニメソング。
アニメの内容は覚えてなくても、アニメソングだけ知ってる曲もある。
封神演義なんかアニメも原作も一回も見たことないけど、アニメソングだけはなぜか100回以上聞いている。
アニメソングには不思議な魅力がある…
そんなアニメソングを大人になった今聞いてみると子供のころ気が付かなかった歌詞の意味というものに気が付いてくる。
アニソンは「あれ?この歌詞、実はめっちゃいいじゃん」の連続なのだ。
そんなわけで今回は、大人になった今だからわかる意外と深いアニメソングの歌詞を考察していきたいと思います。
アニソン考察をするにあたって、僕がとにかくまず考察したかった歌詞がこちら
「幽遊白書」のOP『微笑みの爆弾』
特に意味はないですが、「微笑みの爆弾」をAIで画像生成してみました。
めちゃめちゃ有名なので説明はいらないと思いますが、この曲はもう本当にいい。
幽白とは全然関係ない歌詞だけどいい。
歌詞に霊界の要素もバトル要素も何にもないけどいい。
改めて聞くには最高の主題歌だと断言してもいい。
知ってる人も知らない人も一度こちらを聞いてみてほしい。
(歌ってる馬渡松子さんの公式チャンネルで配信されてました、YouTubeやってたんだ)
いやー、懐かしい…
幽白のアニメは1992年10月10日から1995年1月7日までの放送。微笑みの爆弾は全期間でOPとして使用され、最終回ではEDでも使用されたそうです。
まさに幽白って感じ。もう「ビタースイートサンバ=オールナイトニッポン」(注)と同じ感覚ですね「微笑みの爆弾=アニメの幽白」。
(注)ビタースイートサンバは1967年のオールナイトニッポン開始から使われている有名なテーマ曲。聞けば誰でもオールナイトニッポンを連想する。
リアルタイムだけでなく夏休みの再放送でもよくやっていたので、知名度も高いでしょう。
作詞はリーシャウロンさん、作曲は馬渡松子さん。
インタビューを見る限り、タイアップ曲といってもアニメのためにちゃんと書き下ろされた曲のようです。当時はビーイングの売れ線バリバリの曲とかも多かったんですけど(それも好きですけど)、そういう曲ではないんですね。
早速、歌詞を一行ずつ考察していこうと思います。
都会(まち)の人ごみ 肩がぶつかって ひとりぼっち
果てない草原 風がビュビュンと ひとりぼっち
どっちだろう 泣きたくなる場所は
2つマルをつけて ちょっぴりオトナさ
子供にはいきなりよくわからない文章。
子供は「都会の人ごみ 肩がぶつかって ひとりぼっち」も「果てない草原 風がビュビュンと ひとりぼっち」も経験したことがないからだ。
どちらが泣きたくなるかなんて当然経験したこともない。
この歌の主人公もおそらく後者は(もしかしたら前者も)経験したことがないはずです。
しかし、主人公は「どっちだろう」と考えた末に「2つマルをつけて」います。
そしてその結果「ちょっぴりオトナ」になったと感じている。
これはどういうことでしょうか?
単純に考えれば、「『人はたくさんいるが、誰も自分を見ていない孤独』と『広い空間にたった一人の孤独』、どちらも同じ孤独であるということに気が付いた」ということなのでしょう。しかし大事なのはこんな漠然とした結論ではない気がします。
本当に重要なのは結論そのもではなく、「どちらも同じ」という結論を導き出せたことにあるのではないでしょうか?
そしてこの主人公が「ちょっぴりオトナ」を感じたのは「両方を肯定することができる自分」ではないでしょうか?
「ちょっぴり大人さ」という文言からこの主人公は子供から大人になりかけている年齢と推測できますが、おそらくそれまで孤独について考えたことなどなかったのではないと予測できます。
つまり全く異なるパターンの二つの孤独ということについて考えること・知ろうとすること、そしてその二つを差をつけることなく受け入れることにこの主人公は「大人」を感じ、ちょっぴりだけど大人に近づけた気がしたのでしょう。
我々はもう普通に大人なので、この歌詞の主人公のように一度想像してみましょう…
うーん、改めて想像してみると…この二つを並べてどっちが泣きたくなるか、なんてものすごく高度なこと考えてますよね。
これは考察とはまた別ですが、シンプルおしゃれな歌詞ですよね。
メチャメチャ苦しい壁だって ふいに なぜか
ぶち壊す 勇気とPOWER 湧いてくるのは
メチャメチャきびしい人達が ふいに 見せた
やさしさの せいだったり するんだろうね
ア・リ・ガ・ト・ウ・ゴ・ザ・イ・ます!
続いて2段落目。
主人公は「めちゃめちゃ厳しい人たち見せたやさしさ」のおかげで「ふいに苦しい壁をぶち壊す勇気とパワーが湧いてくる」と言っています。
「めちゃめちゃ厳しい人たち」とは、普通に周りにいる大人たちのことでしょう。特別に厳しい人というよりは、子供である主人公に厳しく指導をした担任であったり、部活の先輩であったり顧問であったり、はたまた両親であったり。
そんな人たちが見せた「やさしさ」、それは一生心に残るもの。
普段は思い出すことはなくても、本当に苦しい時に「ふいに」思い出すことで力を与えてくれる。
とはいえ、いつでも壁をぶち壊すほどの恒常的な勇気とパワーではありません。「ふいになぜか湧いてくる勇気とパワー」なのです。
本当は大したやさしさでもないし、大したパワーでもないのかもしれない。
「やさしさを与えてくれた厳しい人たち」も主人公に勇気とパワーを与えるつもりなんてなかったのかもしれない。
でもそれが、生きていく上で本当に大事なものであることに主人公は気が付いています。
本当は優しさなんかじゃなかったのかもしれない、ほんの小さなやさしさが確実に自分の糧になっています。
ふと思い出す、優しい言葉というものが誰しもあるもの。
僕にもあるし、きっとあなたにもある。
だからこそ主人公は大きな声で言うのです。
今まで出会ったすべての人に「ありがとうございます!」と。
いやー、何事も感謝って大事ですよね。
「壁をぶち壊すのは自分」だけど、「その力を与えてくれたのは今まで出会った人たちのおかげ」という心構えは非常に大事なことだと思います。
みんなそうやって生きているんですよね。
それまで和やかに話してたのに1万円出したら急に怒り出したあのタクシー運転手とか、東急ハンズで立ち止まってたら突然体当たりしてきたあのジジイとか、その瞬間は恐怖でしかなかった最悪な奴らも僕の力になっているんですよね。
ありがとうございます!
今まで何回 ヨロシクと元気に 叫んだだろう
今まで何回 サヨナラと泣いて 別れただろう
どっちだろう 比べて多い数は
中にイコール書いて ちょっぴりオトナさ
微笑みの爆弾
続いて2番。
1番とニュアンスはあまり変わらないように思います。
1番では孤独について考えたが、2番では出会いと別れについて考えています。
こちらの方が子供にもわかりやすい気がします。
「よろしくと元気に叫ぶ」「サヨナラと泣いて別れる」とまで書いているので、ただの出会いと別れではなく「本当の出会いと別れ」とでもいうべきもの。
かけがえのない友達との出会いであったり、ペットの死であったり。少なくとも主人公にとっては大きな出会いと別れのことでしょう。
これも1番と同じように「どっちだろう」と考えること、そして二つに差をつけずに受け入れることに意味があるのだと思います。
ただ1番の「孤独」は自分にしかベクトルが向いていないが、2番の「出会いと別れ」は他人にもベクトルが向いています。
主人公は1番の時に比べてより大人になっていると感じますね。
大人になった理由はそのものずばり、「出会いと別れ」を繰り返したからでしょう。
メチャメチャ悲しいときだって ふいに なぜか
乗り越える 勇気とPOWER 湧いてくるのは
メチャメチャやさしい人達が ふいに 見せた
きびしさの せいだったり するんだろうね
今度は1番と逆に、主人公は「優しい人の厳しさ」が「悲しさを乗り越える勇気とパワー」を与えてくれると言っています。
1番と同じように「めちゃめちゃ優しい人たち」も、周りにいた大人たちのことでしょう。
担任であったり両親だったり部活の先輩だったり。
というか、「めちゃめちゃ優しい人」「めちゃめちゃ厳しい人」なんていうのはきっと本当は存在しないのかもしれません。
主人公がその時そう感じただけであって、その人の本質が優しいか厳しいかは関係がないと思います。
ただ「めちゃめちゃ優しいと思っていた人の厳しさ」だったからこそ強く心に残っているのでしょう。
その厳しさも主人公の成長のためなどではなく、本当にイラっとしたから厳しくしただけなのかもしれません。
でもそんなことは重要ではありません。
たったそれだけの、それだけのことが「悲しい時を乗り越える勇気とパワー」を引き起こす可能性があるのです。
主人公はそこにも気が付きました。
だからこそもう一度大きな声で言いいます。
今まで触れ合ったすべての人に「ありがとうございます」と。
メチャメチャ苦しい壁だって ふいに なぜか
ぶち壊す 勇気とPOWER 湧いてくるのは
メチャメチャきびしい人達が ふいに 見せた
やさしさの せいだったり するんだろうね
そして改めて1番の繰り返し。
冒頭では「ひとりぼっち」について考えていた主人公だが、もう「ひとりぼっち」では生きていないことに気が付いています。
いや本当は最初から気が付いていたのかもしれません。
出会いと別れを繰り返して、人とのふれあいの大切さを身に染みて知りました。
苦しい壁も悲しい時も、どうにかして乗り越えられることを知りました。
他人とふれあいは確実に自分の力になっています。
ちなみにこれまでメチャメチャというワードが4回繰り返されています。
布袋のスリルはいきなりbabyを7回繰り返しますが、それに匹敵するぐらい繰り返してます。
メチャメチャ楽しいときだって 忘れないよ
いつまでも 勇気とPOWER なくさないよ
そして最終段落。またメチャメチャが出てきました。
「楽しい時だって忘れないよ」「勇気とパワーなくさないよ」
このセリフは誰に言っているのでしょうか?
きっと自分と今まで出会ったすべての人に言っているのでしょう。
それにしても、これまで「するんだろうね」など実は曖昧な表現が多かった主人公が、ここで初めて「忘れないよ」「なくさないよ」と意志を表したことには強い意味があるように感じてなりません。
改めて言うことで、強い意志を表しているのでしょう。絶対に忘れない、絶対になくさないと。
言わないと忘れてしまいそうな不安も少しあるのかもしれない。
忘れそうになったこともあるのかもしれない。
楽しい時には勇気とパワーなんていうものは不必要で、そんなものなくても生きていける気がします。
でも、実際にはそうではない。必ず苦しい時や悲しい時がやってきます。
そんな時勇気とパワーがなければやっていけない。
そのことを主人公は知っています。
この時の主人公はもう不完全ながら大人になっています。
「ちょっぴり大人」なんて言っていた冒頭の主人公はもういません。
苦しいことも悲しいことも経験し、それを何とか乗り越えることに成功しています。
だからこそ、今までもらった勇気とパワーがどれだけ価値のあるものなのかを知っているのでしょう。
メチャメチャひとりぼっちの人に あげる
唇の 裏側に 隠してある
ホ・ホ・エ・ミ・ノ・バ・ク・ダン!
そして最後。またメチャメチャが出てきました。
あげる立場に回った主人公。
大人になった主人公は、これまでの人生の中で知らず知らずのうちに多くの人たちとふれあい、もらうだけではなく与えているはずですが、
ここでは「めちゃめちゃ一人ぼっちの人」に勇気とパワーをあげたいと言っています。
主人公はただ誰かを救いたいと思っているのではありません。
「めちゃめちゃ一人ぼっちの人」とは、おそらく過去の自分のことです。
主人公は、過去の自分のような人に勇気とパワーを与えたいと思っています。
都会と草原を比べて、ひとりぼっちで泣きたくなる方にマルをつけていたり、出会いと別れの数を比べてイコールを書いたりしていたりしていた
過去の自分のような人に、主人公は思いを届けたいのです。
でも自分の行動で、本当に勇気とパワーがあげられるかはわかりません。
勇気とパワーは他人にあげられるものではありません。
きっかけは他者とのふれあいだったかもしれませんが、それ自体は自分の中で作り出したもの。だからこそ苦しい壁も悲しい時も乗り越えられたのです。
だから主人公があげるものは、ここまでさんざんワードとして出てきた「勇気とパワー」ではありません。
ここでようやく出てくるのがタイトルにもなっている「微笑みの爆弾」なのです。
唇の裏側、つまり普段は誰も見せない場所に隠している。
常に見えていては意味がないことを知っているからです。
ほんの少しの微笑みが、受け取り方によって爆弾のような威力を持つことを主人公は知っています。
微笑みが爆弾となってひとりぼっちの人の心に届き、爆発していつか勇気とパワーを生み出してくれる。そう信じて主人公は微笑みの爆弾を与え続けたいと思っています。
微笑みが「厳しい人の優しさ」になるかもしれないし、「優しい人の厳しさ」につながるかもしれません。
この主人公が実際に勇気とパワーを与えられる人間になっているかはわかりませんが、その思いが無意味であるとはだれにも言えないでしょう…
こいつもメチャメチャ一人ぼっちなのかな
フルコーラスの解釈をしてみたが…すごい曲ですね。
詞ではなく詩のようです。
馬渡さんとリーシャウロンさんが徹夜で考えたというだけあって、脳天にガツンとくる。
すでに大人になっているからこそ、歌詞が心に深くしみます。
大人になってからこの曲について改めて考えてみて一番感じるのは「僕は人に何かを与えられる人間になっているか?」ということに尽きます。
『微笑みの爆弾』は金も権力も地位も名誉も何もなくても他人に与えられるものです。
記憶を掘り返してみても僕は誰かに微笑みの爆弾を与えた記憶などありません。
ちょっぴりどころか完全に大人になっているのに、なんということでしょう…
ならば微笑みの爆弾を与えられた経験はあるのか、というとそういう記憶もない気がする。
…いや、考えてみたらそれっぽいものはあったのかもしれない。
今ふと思い出した。
あれは中学2年生の時だったと思う。
当時の僕は何にもやりたいことがなくて勉強もスポーツも何にもやる気がしない無気力人間だった。
ある日の現国の授業で「サーカスの馬」を取り扱ったときだっただろうか。席順ごとに読んでいくあのパターンで、僕の番が終わった直後に現国の教師が行った。
「君は朗読がうまいね」
その人は朗読中に何か言うことなんかめったにないのに、僕の時だけ急にそんなことを言われた。
(あー、俺って朗読がうまかったのか…)
何気ない一言だったけど、妙にうれしかった。
そのあと成長期でめちゃめちゃ滑舌が悪くなったので、今では朗読なんて全くできなくなったが国語というもの自体が好きになった。
今放送作家をやっているのもそのことがあるからかもしれない。
おそらくあの教師は何も意識せずに、ただ本当に朗読がうまかった生徒を褒めただけなのだと思う。それでも今でも覚えているぐらい、僕にとっては大きな出来事だった。
もしかしたらあの言葉も小さな「微笑みの爆弾」だったのかもしれない。
そう考えると、実はいたるところに「微笑みの爆弾」が飛び交っているのかもしれない。
僕も誰かに微笑みの爆弾を与えられているのだろうか。
いやこれまで色んな人と関わって生きてきたんだから、一度くらいは微笑みの爆弾を与えられているはずだ。そう信じて生きていきたい。
幽遊白書の主題歌「微笑みの爆弾」
何気ない気持ちで歌詞を読んでみたが、本当に大事なことを教えられた気がします。
何もない人間だけど、それでも誰かに与えられるもの。それが本当の優しさなのかもしれません。
この曲は幽遊白書のストーリーとは何にも関わっていないが、少し仙水のことが脳裏によぎりました。。
この歌詞の主人公は仙水が狂わなかった世界線だったのではないかと…
仙水が出てくる前にアニメ化されてるのでイメージしてるわけはないんだけど、そういう偶然もアニメソングの魅力の一つだったりしますよね、
とりあえず鏡の前で微笑んでみましょうか。
よく見るとかわいいなこいつ。